”『明治維新』はなぜ起こったか?-⑤!!”
明治維新の起こる素地
⑤『ええじゃないか』の狂乱は薩長の謀略か?・・・・・・伊勢神宮の”お蔭参り”が幕末にまた大流行した。”ええじゃないか”である。天保元年の”お蔭参り”から37年後の慶応3年(1867年)秋、伊勢神宮の御札が天空から降ってきた。
ちょうど政局は煮えたぎっていた。将軍”慶喜”が天皇に政権を返す”大政奉還”の方向に動いていたがその返し方と政治体制のありかたについて、激しい抗争が続いていた。まかり間違えば、一触即発の状態であった。過熱する政治情勢の中で、まず東海道筋で御札が降り、やがては東は江戸から会津、西は京都・大坂・神戸まで広がった。
この御札降りの奇跡には、こんな講釈がついていた。『外国から日本を守るために、天子(天皇)の皇祖となる天照大神(あまてらすおおみかみ)が現れた』
『今は、神の世となり、遊び暮らせる有り難き世の中になった』
そのために民衆は大いに浮かれ、狂喜乱舞した。
『ええじゃないか、ええじゃないか。開門(おめこ)へ紙はれ、破れたらまたはれ。ええじゃないか、ええじゃないか。』
「開門」は女陰のことである。人々はこうした卑猥な歌をうたいながら、踊り狂った。投げやりなアナーキーさは、時代の先が見えない民衆の屈折したエネルギーの爆発である。
『何をやっても、ええじゃないか』と浮かれる民衆は他人の家に勝手にあがりこんでは踊る。あがられた家でも、酒をふるまい、いっしょに踊る。
日頃から嫌われている地主や金持ちの家では、家財道具を蹴散らし、
『これをくれても、ええじゃないか』と勝手に持ち出す。踊りくたびれると、知らない家に横になり、目がさめると、また踊りだす。
こんなことが各地に見られるようになった。御札降りにかこつけた集団的な無法行為には、役人も手が出せなかった。無秩序と無法状態が幕末に出現したのである。
それを巧みに操ったのが、どうも討幕の志士であったようだ。目撃談によると、浪人か、薩摩の武士らしい一団が踊り過ぎると、御札が降ってきて、『ええじゃないか』が始まったという。とくに神戸や西宮では300種類もの御札が降って『ええじゃないか』に拍車がかかった。
どさくさに紛れて戦いを仕掛ける---これが薩長の討幕軍のやり方であった。兵力の少ない薩長方は、民衆の騒乱を引き起こすことで、それを隠れ蓑にして挙兵の機会をうかがっていた。

