『私の惚れた江戸』-① 杉浦 日向子


 

✡️江戸は一口に「大江戸300年」といいますが、吉宗から化政期の、11代将軍家斉までの三代70年間が最も充実していた。このころに、”江戸歌舞伎”・”江戸大相撲”・江戸戯作”・落語”・江戸小唄”・”端唄”・”歌舞音曲”・”江戸川柳”・”狂歌”・”浮世絵”等々が次々に生まれた。


300年間の前半は、江戸の町の基礎作りで、文化を育むゆとりがなかった。元禄時代に華やかだったのは、江戸ではなくて、京都・大坂だった。江戸は坂東の片田舎であり、上方から入ってくる文化を有り難がって、せっせとコピーしていたのであった。「下りものにあらずば、よいものではない」と言われました。そして、吉宗以降から、ようやく都市としての自覚も出てきて、自分たちの手による自分たちの文化というものを作り上げて行こうという気運が芽生えてきた。


江戸は、まだ生まれたばかりの新興都市であり、王朝文化の京都、豪商文化の大坂と異なり、庶民の文化というものをはじめて作り上げたといえる。”歌舞伎”・”寄席”・”相撲”・”浮世絵”・”俳句”・”川柳”・”音曲舞踊”そして和食の代表格、”てんぷら”・”すし”・”ウナギ”・そして”そば”、それらは江戸前の四天王と言われ、すべて庶民の創造物であった。庶民の側からの要求、要望が具体化し、しかも文化にまで昇華した、本当に稀なケースである。


京都は貴族、大坂は豪商がトップにいた。江戸でトップにいたのはもちろん武士であるが、武士が表立って庶民階級の文化に口出しをする場面はなく、武士の社会と庶民の社会というきっちりと分かれた二層の社会が並立して存在したということである。その中で、江戸っ子らしい、きっぷのいい、物事にこだわらない、「宵越しの金は持たねぇ」というような気質---江戸っ子気質を形作っていたのが、職人衆の価値観であった。江戸は職人の町であったのである。



スエイシ君の人生修行