”中国について考える-⑥”


『鄧小平について』

  

 ”鄧小平”は1904年、中国四川省広安県の裕福な客家(はっか)の出身で--客家とは、華北の黄河流域、中原と呼ばれる地域に住んでいた漢民族であり、”孫文”・”宋家の三姉妹”・”朱徳”・”葉剣英”・”李鵬”・”李登輝”などがいる。16歳の時フランスに留学した。フランスでは苦学していろいろな職業に就いた。1926年モスクワに渡り、共産主義を学んだ。帰国後、”毛沢東”に合流した。


”鄧小平”は、何度かの復活と失脚を繰り返し中国政府の中心的な役割を果たしている。『白い猫でも黒い猫でも、鼠をとるのがいい猫だ』という言葉はあまりにも有名である。当時は『大躍進』が失敗に終わり中国全土が大飢饉に苦しんでいた最中の1960年代初め、中央書記局会議の席での発言である。その頃は、集団営農をしていたのだが、これをやめて個人耕作してもかまわない、という意味なのである。農村を軍隊方式の「人民公社」に組み替えて、田畑を個人所有から集団の持ち物にしたのでは農民の労働意欲をなくしてしまった。また、原始的な”溶鉱炉”が雨後の竹の子のように至るところに出現し、その溶鉱炉に放り込む屑鉄探しが農地の耕作より大事と言われた農民は、農地をほったらかして屑鉄を探し回った。


屑鉄探しに疲れ切った農民は天災と戦う気力はもう、持ち合わせていなかった。こうして凶作による飢餓で1960年、1961年の2年間で中国の人口は1300万人も減った。


「大躍進」の失敗により、”劉少奇”・”周恩来”と”鄧小平”が実権を握り、”毛沢東”は「第二線」ら押し込められた。”鄧小平”は個人耕作の権利を認め、農民の”金儲け”を公認した。このことにより、農民の労働意欲はよみがえり数字となって現れてきた。この”安徽省”のモデルを全国に広めた。そうして生産量は「大躍進」以前のレベルを超えるようになった。そうすると面白くないのは「第二線」に押し込められ、発言権の無くなった”毛沢東”である。自分の手がけたことを次々に覆し、しかも成功を収めていくのを情けない思いで眺めているほかなかった。







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