”はにかみという徳”
萩原朔太郎『虚妄の正義』より
羞恥心という言葉は様々の場合に、様々に解される。ごく普通に恥ずかしがり屋という風にうけとってもいいが、私はここでは「はにかみ」の心としてとりあげたい。むろんこれも問題であり、たとえば、自分の本心を言いたいときに、心が臆して、他人に追従したとしか言えない場合がある。自分のそういう臆病を弁護するために、「はにかみ」は大切だと言うなら、これは一種の悪徳と言っていいだろう。
私はまず、「露骨なもの」に対するそれは嫌悪の情だと解したい。この「露骨なもの」も、人によって受け取りかたがちがうが、歯に衣着せず、自分の思っていることを、ずばりと言うことは大切だし、それを露骨と思い違いしてはなるまい。
しかし、そういうときでも、自己宣伝や自己誇示がそこに入ったらおしまいである。人々の拍手を得たいために、いわば大向こうをねらって、痛快そうな言葉を吐く人がいるが、この場合は誰だって見えすいた「露骨さ」がいやになるだろう。
たとい、ずばり言うときでも、自分は謙遜な心を持ち、もしやまちがっていないかと、反省を一方に忘れないそこに私のいう「はにかみ」がある。朔太郎は「塩のようなもの」と言っているが、一種の辛い自己抑制と言ってもよい。自分の心の中に、控え目な「恥ずかしがり屋」をひとり住まわせておいて、つらい思いをしながら、その上で歯に衣着せずに発言するならば、その言葉にはじめて味が出てくるだろう。
言語表現の場合が一番むずかしいのだ。人間は裸の場合が自然対して弱い。だから着物を着て保護するわけだが、裸の思想も同様に弱いものである。裸の人間が羞恥心をもつようら、自分の考えも裸のままでないかどうか、反省してみる必要がある。公式主義とか、人まねとか、聞きかじりの思想など、すべてこれは裸のようなもの、それを恥じなければならない。
女の服装とか化粧も同じことである。ヌードは今日ではあたりまえのことになったが、それは舞台の上とか、いわば「芸」としてみせる特殊な場合で、普通の女性が、あまりに露骨な粧(よそお)いをしたら笑われるだろうし、第一本人の羞恥心がそれを許すまい。
化粧は、自分をひきたてる方法だと思われているが、一方では、自分を隠す方法でもある。自分で醜いと思っている点を隠すだけでなく、自分で美しくみせようと思うその心も隠すことが最上の化粧方法である。多くの女性はこれを忘れている。化粧におけるどぎつさ、露骨さは、すべてここに生ずると言ってよかろう。またそれを好む男性は、美しさへの感覚を失っているのである。
ほんとうの美しさは、いつも隠れているものだ。美しさを求める心によって発見されなければならないものである。それを待つものだ。だからはじめての恋愛のときは、誰でも「はにかむ」のである。決して露骨にはなれない。もし露骨な態度をとったら、そこから美しさは崩れてゆくだろう。隠れている美しさがあるからこそ心をひかれるわけで、「情趣をひとしおに深くする」とはこのことである。

