”四境戦争ー②”



 ”四境戦争”の芸州口の戦いでは徳川幕府は芸州・浅野四十二万石を先鋒として起用しようとしたが、ていよく断られたので、仕方なく井伊(彦根藩)と榊原(越後高田藩)を指名した。幕府はここ芸州口に最大の兵力を集めた。勝海舟は「長州人はカミクズヒロイのようなかっこうでやってきたよ。」といっている。洋服のようなかっこうである。筒そでにズボンのようなものをはき、簡素で機能的な服装である。それに対して幕軍は戦国時代のような鎧・兜に身をかため運動性はすこぶる悪い。長州軍は旗も幟も持たず手に持つものは”洋式銃”のみである。しかも兵から指揮官にいたるまで、全員が最新式の”ミニェー銃”を持っていた。射程は400mである。対して幕軍は”火縄銃”であり、射程は120m。しかも最新式の”ミニェー銃”は銃身に線条の溝が彫ってあり命中率と威力が格段に向上している。また、弾ごめのスピードも幕軍が一発うつあいだに、五発以上うってくる。幕軍の先鋒は3,000人。長州軍の3倍である。”大村益次郎”の方針は兵を”正”と”奇”に分かつ、というものである。”正”に防御点と防御戦を守らせ、”奇”を敵の背後より攻めさせた。これにより幕軍は潰乱し、逃げまどった。三方面から包囲され海岸に逃げるしかなかった。幕軍は具足を脱ぎ捨て、兵器を捨てて逃げた。遺棄された鎧・兜は数知れず。大砲は十数門すててあったが、役には立たず。米国製の十ポンド砲が二門あり、これは役にたつものであった。長州軍は敗残兵には傷薬を与え芸州・広島にある幕軍本営に送り返した。それらの捕虜のまげに「井伊、榊原」という藩主にあてた手紙を結びつけた。「そのほうども、先祖にも相似ず、武辺にうとく、このたびの敗北におよぶ。銃器などたしかに当方あずかり申すが、今後武辺にはげんだ上で、受け取りにくるように。」ともかくも、第一戦は快勝した。


                     大村益次郎