今から後、われは死すことなく生き続けん
言葉の種子を蒔きしゆえ
――フェルドゥースィー『王書』より
(訳文は黒柳恒男『ペルシア文芸思潮 増補新版』東京外国語大学出版会、p.45に拠る)
先日、ディベート甲子園振り返り配信において一試合を解説するという大変ありがたい機会を頂戴した。
解説をお受けするにあたり、どういう方針で振り返りを行うべきかは大いに悩んだ。というのも、大会で行われたすべての試合にはその試合の審判を行った方がすでに優れた講評を付しているのであり、当該の試合を現場で観戦したわけではない私が判定の考え方やスピーチの改善点について今更解説を加えたところで、屋上屋を重ねるに終始してしまうのではないかと考えたのである。加えて、私の選手としての能力に鑑みれば、ディベートの技術的な面について思うところを語ったとしても、一流の選手によるそれと比べると二流のものになってしまうだろうという思いもあった。
こうした悩みを踏まえ、振り返り配信では試合の大局的な展開よりも細部の技術について、議論の骨子よりも一枚一枚のエビデンスの扱いについて詳細に説明を行うこととした。これにより、当日の講評では時間的制約により掘り下げられる機会を逸してしまった点を拾うことができるし、ここ数年の私がディベートにおいて特に深く検討してきた部分を活用することもできるだろうと思ったのである。
現役選手としてはもっと聞きたいポイントがあったのではないか等、上記方針が正解だったかどうかは今でも悩んでいるが、結果として多くの方より好意的な反応を頂戴でき幸甚であった。
ところで、配信終了後、ある方から質問を頂戴した。これは本記事の執筆よりかなり前のことで、本来であれば迅速かつ簡潔に思う所をお伝えすべきであったのだが、検討を重ねているうちに言及したい事柄が雪だるま式に増えていったことに加え、9月から10月にかけて私自身も選手としてまた新たな経験と挫折を得たこともあり、結局お返事するのが遅くなってしまった。質問を下さった方に遅れを詫びつつ、ようやく回答をお送りしたのが2週間ほど前のことである。
とはいえ、怪我の功名といっては開き直っているようで恐縮ではあるのだが、結果としてはこの回答は自分の考え方についてある程度まとまった分析を施す機会となった。大変興味深いやりとりであったので、質問を下さった方に許諾を頂戴し、一般公開することとした。
さて、質問の主旨とは大概以下のようなものであった:配信では特に否定立論についてクレームとエビデンスの中身の乖離について触れる箇所が多かったが、こうした分析の背景には配信者が資料の原典まで参照したことに加え、資料の中身とクレームの乖離を試合中に認識し、それを記憶するという能力があるように思われる。また、質問者は選手として参加している試合において、資料請求などのプロセスのなかで混乱してしまい、結果的に試合中に抱いた違和感を適切にスピーチに反映させることを不得手としている。ついては、これらの課題をどのように解決すべきか、ジャッジとして・選手としての両面からお話を伺いたい。
以下、これに対する私からの回答を掲載する。かなり時間をかけたとはいえ私自身の不勉強もあって術語の不適当な使用や語彙の稚拙さなどもあろうかと思うし、文体も不必要に冗長なものとなってしまった感が否めないのだが、それでも一定の人には何らかの価値があるのではないかと思っている。
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前提
はじめに断っておきたい点が2つある。
ひとつは、回答者自身もご指摘の問題についての対策はいまだ検討の途上にあるということである。にもかかわらず配信においてあのような指摘を行いえたのは、ご指摘の要因のうち前者、つまり事前の調査によるところが大きい。したがって、以下に述べる選手・ジャッジとしてどのような対応が可能か、という論は、あくまで理想論であって、現実の試合においてはうまく実現できないことも多い。以下の議論は現状ではなく目標の分析である点をご理解いただきたい。
もうひとつは、後段で詳しく述べるが、個々のエビデンスをベースとした違和感を試合中に適切に言語化することは、必ずしも勝率向上や判定の適正化に直結するわけではない、ということである。私自身、試合中に相手チームのエビデンスの引用の仕方に不自然な箇所があっても、さほどクリティカルな反論にならないと感じた際には捨ておくことも多い。また、強引に言語化しようとして、結局あまり有効な反論にならなかったという経験もしばしばある。以上は選手としての見方だが、類似の問題は審判としても別の形で配慮を要する。すなわち、試合当事者が議論しなかったエビデンスの問題をことさらに判定に反映すべきなのか、という問題である。なお、配信ではこうした点をあまり考慮せずに広くエビデンスの問題について言及したのだが、それは振り返り配信という場の性質上余談に花を咲かせるのもまた一興であると信じたことと、選手や審判の立場から離れてディベートという競技を見た際に、回答者が最も強い関心を寄せるテーマが証拠資料の扱いであることとによる。
1.分析の尺度
はじめに、証拠資料の問題点の類型をきちんと心得ておくことが重要である。これを把握しておくことにより、自分が感じた違和感を正確に言語化することが可能となる。本来であれば、先にエビデンスへの違和感を察知する契機とそれを記憶しておくための工夫を述べた後でかかる違和感をどのように言語化すべきかを述べるのが自然な順序であろうが、証拠資料の問題点の分類尺度を了解していたほうが、問題の存在を把握するための工夫についても呑み込みやすくなると思われるため、あえてこの順序で説明することをお許し願いたい。
もっともポピュラーな分類方法は「証拠能力」と「証明力」である。前者は規則に定めるエビデンスとしての資格を満たしているかどうか、という観点であり、そもそもそのエビデンスが実在するのか、出典情報は控えられているか、その出典情報は正しいか、文章の一部を捏造していないか、著しく文意を損ねる前略・中略・後略を施していないか等が問題になる。証拠能力を持たないと判断されたエビデンスは試合の判定から完全に阻却される。ことによっては引用した試合当事者の勝敗や出場資格にまで処分が及ぶ可能性がある。その有無はおおむね形式的に判断され、対処は阻却か採用かの二択しかない。証拠能力の有無はそれをめぐる議論が試合中に提出されたかどうかは一切問題とならず、対戦相手による抗議はスピーチ外で行うことが認められる。
後者はそのエビデンスが主張を支え得るものとなっているか、という観点であり、執筆者の肩書はどうか、そのエビデンス内部の論理が妥当かどうか、常識的に妥当な分析かどうか、その記述と引用者の主張との間に飛躍はないか等、尺度は多岐にわたる。対応も、そのエビデンスを判定に反映しない、考慮はするが引用者の主張通りに受け取らない、引用者の主張の一部のみが立証されたと判断する等、対応も様々である。証明力は抽象的にみれば連続的概念であり、ありやなしやという問いに回収されない場合が多い。この点に際しては、証拠能力が認められた時点で、そのエビデンスは引用者の主張とは独立に判定の根拠となりうる、という点を特筆しておかねばならない。極論、エビデンスの記述は採用できるが、そこから得られる結論は引用者の意図とは正反対である、という判定もありうるところである。
証明力を判断し、対応を検討するうえでは、対戦相手当事者から試合中に抗議があったか、ということも変数となりうる。これは証拠能力の判断とは異なる点である。既述の通り、証拠能力の有無を判断するうえでは、対戦相手当事者からの抗議はあくまで証拠能力の不在を疑うきっかけにしかならず、そうした抗議がなくとも審判は証拠能力の判断に介入することが認められるし、また理想的には介入すべきである(ただし、何のきっかけもなしにそれが可能であるか、という点は全く別問題であり、だからこそ証拠能力の不在は発覚した場合に著しく厳しい措置が下されうるのだが)。これに対し証明力については、仮に著しい反論の余地があることを見出したとしても、抗議がない限りその点を判定には反映しないということもありうる。証明力についてあまりに厳しすぎる態度を取ってしまうと、対戦当事者が判定に及ぼす影響が極小化されてしまうおそれがある。とくにディベートでは社会内で高度に対立している政策的立場のどちらかを審判に支持させるという、アカデミアや法廷では考えられないような過大な要求が選手に課せられているため、少しでも無理のある推論が全て棄却されるということになれば、演台に立って声を出すことの意味がほとんどなくなってしまう。他方、とくに抗議がない限り選手当事者の主張を丸のみするという立場にも限界がある。形式的にエビデンスを添付すればどんな主張でも通し放題だということになれば、究極的にはたとえば意味のない一行エビデンスを添付して無茶苦茶なターンアラウンドを提出し続けるといった不毛な戦略が横行し、妥当な根拠に基づく議論が意味をなさなくなる。けだしバランスの問題であるわけだが、審判としてはその均衡点の置き方が、可能ならひとつの大会の中で、それが難しくともひとつの試合の中で、一貫していることが求められる。また選手としては、少なくとも判定に影響しうる重要なエビデンスについては試合中に言及して審判に判断を迫る必要があるし、より高次には、個々のジャッジの証明力判断における傾向を把握することが有効な場合もある。これらの点については後段で詳しく述べる。
以上に証拠能力と証明力という分類尺度を設定したが、回答者は個人的に証明力をさらに2つの類型に弁別している。あえてこれを名付けるのであれば「エビデンスの記述の信憑性」と「ディベーターの主張の強度」の2つである。
この2つを詳しく説明する前に、ある主張の立証はどのようなプロセスにおいて行われるのかを紐解いておきたい。例として「現代の刑事裁判では黙秘権行使が盛んになっている」という主張を考えたい。あるディベーターが、立論において以下のような立証を行ったとする(なお、簡便を期すため、エビデンス自体の主張はごく単純なものとした)。
「現代の刑事裁判では黙秘権行使が盛んになっています。 弁護士川崎24『弁護士の間では、とくにここ十数年で、依頼者に黙秘権の行使を助言することが一般的になってきました』終わり」
(文中の資料:「「黙秘権」の侵害は“他人事”ではない… 「推定有罪」を決めつける検察の"説得"が冤罪を生み出す理由」弁護士JPニュース,2024年3月,https://www.ben54.jp/news/1011)
以上の主張は以下のような構成を有していると見ることができる。すなわち、①弁護士川崎24のエビデンスに『弁護士の間では、とくにここ十数年で、依頼者に黙秘権の行使を助言することが一般的になってきました』との記述があり、②この記述が「弁護士の間で、とくにここ十数年で依頼者に黙秘権の行使を助言することが一般的になってきた」という現象を反映しており、③この現象が「現代の刑事裁判で黙秘権行使が盛んになっている」という主張を支持する、という論理構成である。①エビデンス上の記述、②記述が反映する現象、③現象が支持するディベーターの主張、という順序で論理が引き継がれていっていることが確認できるかと思われる。前述の証拠能力と証明力の二分法に戻ると、証拠能力とは「そもそもそのような記述が存在するのか」という、①の存在を問うものだったということがわかる。他方、証明力の存在は、①の存在以外に付される疑問をクリアできているかという点に帰されることとなる。
ここで、「エビデンスの記述の信憑性」とは、①から②への論理の引継ぎが適切に行われているか、という問題である。上の例でいうならば、川崎なる一弁護士の発言が、刑事裁判に関わる弁護人相当数の実際の動向を適切に反映しているか、という点を問うことが、エビデンスの記述の信憑性を問題にする、ということとである。他方、「ディベーターの主張の強度」とは、②から③への論理の引継ぎが適切に行われているか、という問題である。上の例でいうならば、刑事裁判に関わる弁護人の動向が、刑事裁判への被疑者の対応に関する主張をどの程度支えているのか、という点を問うことが、ディベーターの主張の強度を問題にする、ということである。クレームとエビデンスとの乖離、と言う際には、証拠能力の不在すなわち明確なルール違反でない場合、上の両者のどちらに問題が生じているのかを確認する必要がある。
なお興味深いことに、エビデンスの記述の信憑性の問題、すなわち①から②への論理の引継ぎが適切に行われているかというチェックは、極めて重要であるにもかかわらず、意識されたり話題にのぼったりすることが多くない。これには背景に色々の事情が存することが考えられ、そのうち一部には必要に応じて後段で言及するが、個人的なことを言うと回答者はディベートにおいて(は/も)この信憑性の問題がもうひとつ盛んに議論されてもよいのではないかと思っている。余談だがこの感覚は、おそらく回答者のバックグラウンドが歴史学という、①から②への論理の引継ぎを適切に行う技術に専らその「科学性」を頼っている学問にあることに由来するのだと思われる。
2.どう問題を察知するか
以上、エビデンスを巡る問題の内実を見てきた。次に、その問題にはどうすれば気づけるのか、それを忘れないうえでどうしたらよいのかを述べる。ただし最初に断ったように、ここから先は回答者にとっても発展途上の領域であることを御承知いただきたい。
はじめに、問題に気づくための手法を述べる。といっても、証拠能力と証明力のうち、前者については察知する手段はほとんどないと言ってよい。そもそも証拠能力を持たないエビデンスの使用に著しく厳しい措置が取られる理由のひとつは、完全なエビデンスの捏造が行われた場合、対戦相手もジャッジもそれに気づくのが困難である、というものだ。実際の試合でエビデンスの出典を全面開示させるということが現実的に困難であることに加え、(図書館の資料検索機構が高度に確立されている今日ではあまり考えにくいことではあるが)ほとんど入手困難で実在するかを検証することもできないある雑誌記事を偶然図書館の片隅で発見したのだと主張された場合に、それが実在しないものであることを立証するのはほとんど不可能に等しいためである。加えて、想像だにしたくないことだが、もしも不正なエビデンス引用が横行する環境が生じた場合、そもそも審判や教育者のあらゆる努力もむなしく、ディベートという競技は持ちこたえることができない。これは自らの主張を支える良質なエビデンスを捜索するという本来報われるべき努力が価値を持たなくなるからである。この点は重要であるため改めて明言しておくが、エビデンスの証拠能力を保障し、それが存することを能うる限り証明する責任は、全面的に引用当事者にあるのであって、対戦相手やジャッジには一切責任がない。いうまでもなく、アカデミック・ディベートは第一に証拠能力を担保されたエビデンスにより主張を根拠づけるという信義則により成り立っている。このことは、エビデンスの記述の信憑性について若干の、ディベーターの主張の強度について相当の作為が認められていることとは大きく異なることを確認されたい。証拠能力の立証責任は引用者が単独で背負うべきであり、そこに一切の作為は認められない。
ただし、証拠能力が問題となる場面のうち、いわゆるディストーションは、ときには選手の過失により、信じたくないことだがときには選手の故意により、しばしば実際の試合において生じうるものであるし、反面その発生を察知するうえでは完全な捏造と異なり証明力への疑義と同様の契機が有用となる。したがって以下では、一部の証拠能力の不在(すなわちディストーション)と、証明力の不足を、「クレームとエビデンスの乖離」と総称し、その端緒をいかにすればつかむことができるかを述べることとする。
ディベートにおける他の技術と同様、クレームとエビデンスの乖離を即座に把握するうえでの最大の鍵は試合中の努力ではなく事前準備にある。事前準備とひとくちに言っても色々な種類があるわけだが、ここでは資料を探し読む作業に並行してなしうる、クレームとエビデンスの乖離を把握するうえで特別有用な工夫に絞り、性質の異なる2つの準備について紹介する。わざわざこのような前提を説明したのは、ここでは個別のエビデンスへの理解を深めるべきだという点と、個別の議論への理解を深めるべきだという、普遍的に有用な事前準備について言及しないからである。身も蓋もない結論だが、クレームとエビデンスの乖離に対処するうえでの最強の事前準備はこの2つを徹底することにちがいない。とはいえ、ここでわざわざこの2つを強調することには、質問の趣旨からしても、回答者の「実績」からしても過分であろうと思われることから、あえて追及しないこととする。
第一は、各資料類型をつらぬくイデオロギーを把握することである。イデオロギーといってもさほど大仰なものではない。あらゆる論題に普遍的な例を示すと、論文は当該の学問におけるパラダイムの追認・修正・変革を目的として書かれるとか、政府統計は(ごく根源的な問題を除けば)もっぱら社会の現状分析を目的として調査がなされるとか、そういった性質を把握しておくことが有用だということである。また各論題に特化した例を示すと、どこどこ大の何某は本論題の肯定側に親和的であるとか、○○学は概して本論題の否定側寄りのスタンスをとる識者が多いであるとか、そのような動向を把握しておくことが有用だということである。このほか、各政党や新聞社の政治的スタンスを承知しておくことも環境次第では有効である。
以上のような準備は、ディストーションやエビデンスの記述の信憑性不在に対しとくに有用となる。たとえば官公庁の肩書で極端な政治的主張を含むようなエビデンスが提示されていたら、それは実際には当該組織の公式見解ではなく諮問を受けた一有識者の意見表明かもしれない。アカデミアが概して否定的なスタンスを示している論題で、大学教授の肩書で正反対の主張がエビデンスとして提示されていれば、その見解はやや旧い学界潮流を反映したものかもしれない。各資料のイデオロギーを把握することにより、このような疑いをかけることが可能になる。
第二は、各資料類型の論理展開と構造を理解することである。たとえば論文であれば、過去の研究ではしかじかと主張されている、今回の調査はしかじかという結果を示した、現実はしかじかである、という順序で展開することが多い。新聞記事の典型的な一例をみれば、通信社の速報等はしかじかと述べている、これまで現実はしかじかの経過をたどっている、有権者等はしかじかと反応している、といった論理展開をとっている。このように分解することで、それぞれの場面における論理構造において主語が微妙に変化していっていっていることがうかがえるであろう。以上の例はあらゆる論題に共通して有用な知見であろうが、また論題の性格次第ではある資料群がさらに際立った論理構造の特徴を示すこともあるかもしれない。いずれにせよ、これらを理解しておくことが第二に有用な事前準備となる。
以上のような準備は、主としてディベーターの主張の強度を問題にする際に有用となる。
資料の記述の根拠となっている現象から、その現象を根拠とするディベーターの主張に橋渡しがなされる際にほどこされる典型的な作為のひとつは、具体的な事例を以て抽象的な理論へと飛躍するというものである。たとえば、ある冤罪事件での被告人の手記を冤罪被害者すべての経験に敷衍する、ある末期がん患者のブログ記事をすべての終末期医療の対象者の世界観に敷衍するといった作為である。それぞれの資料類型が何を主語とする現象を描写したものであるかという論理構造に精通していれば、こうした飛躍に気づきやすくなるし、飛躍の仕方が強引か否かも判断しやすくなることだろう。
次に、クレームとエビデンスの乖離を試合中に察知するために、どのような点に留意すればよいのかを述べる。ここでは、こうした乖離が存在する可能性を示すいくつかの兆候を紹介する。
第一は、言うまでもないことだが、極端な主張である。極端な主張がなされる場合は、往々にしてディベーターの主張の強度が何らかの問題をきたしているし、そうでない場合そもそも資料の記述の信憑性に問題があるかもしれない。これは何も政治的な意味における極端な主張だけでない。直感や一般常識に反する主張の裏には何らかの飛躍があると考え、エビデンスの内容に耳を傾けることが重要である。また、直感や一般常識からそこまで乖離しているわけではないが、科学的に厳密な立証は困難であろうと思われる主張も、強引な根拠づけを伴っていることが多い。
第二は、複雑なエビデンスである。直截な主張に極端に難渋なエビデンスが付されている場合、引用者は根拠づけを行う上でより単純な言い回しのエビデンスを入手できなかったことが予想される。これは同じ主張を支えてくれる資料があまり多くないことを示唆しているから、やはりディベーターの根拠づけに強引なところがあるか、被引用資料が他資料の動向から浮いているという可能性がある。第三は、これとは反対に単純すぎるエビデンスである。エビデンスの文言内での理由付けが不明瞭な場合、そのエビデンスの主張の信憑性が疑わしいということになる。これも、丁寧な理由付けのエビデンスが入手できなかったことを示唆しており、やはり主張とエビデンスとの乖離を暗示してくれる。これに附随して述べておきたいのがいわゆる孫引きの問題で、資料の執筆者当人の主張や原典ではなく、「しかじかの文献では~と述べられている」という文言をわざわざエビデンスとして引用している場合にも、なんらかの無理な飛躍を行っている可能性がある。
最後に、これらとはやや毛色の異なる兆候を2つ紹介したい。ひとつはエビデンスの「文体」である。例えば丁寧語すなわち話し言葉で書かれているエビデンスは、インタビューからの引用であったり、ブログ記事からの引用であったりということがしばしばある。また俗な言葉遣いで書かれているエビデンスは、十分な編集や査読を施されていない文献から引用された可能性がある。これらの資料が常に問題含みだというわけではないが、学術論文や書籍と比べればその記述の信憑性を差し引いて見なければならない場面が多い。いまひとつはエビデンスの出典や著者の肩書である。「ジャーナリスト○○」「作家○○」などの肩書をおあつらえ向きの肩書を差し置いて使用することにはあまり意味がないので、これらも資料の記述の信憑性の低さを示唆していることがしばしばある。
以上、主張とエビデンスとの乖離を把握するうえで試合中につかみうる兆候を見てきたが、これらの兆候がいつも何かの問題の存在を暗示しているとは限らない点には注意が必要となる。というのも、ディベートでは学術的な議論と異なって、多少エビデンスへの信頼に傷がつく恐れを負ってでも、強めの主張を打ち出したり、過度な単純化の施された資料から引用したりすることが有用な場面もしばしばあるからだ。どのような場面がそれに該当するのかは本回答の趣旨に反するので詳述は避けるが、感じた違和感がいつも適切な判断に直結するとは限らない点を留意すべきである。
最後に、これらをしっかり記憶しておくためにはどうすればよいかを、回答者の実際の工夫に則して3点紹介したい。第一は、妙だと思った文言を、かりに引用者の主張と関係が薄くともきちんとフローシートに落としておくことである。書くことによって記憶にも残りやすいし、忘れてしまっても見返すことで再確認できる。第二は、怪しい資料にフローシート上で印をつけておくことである。回答者はフロー上のエビデンスを記録した箇所にしばしば?マークを付している。第三は、とくに審判として参加している場合、自分の疑問をフローシート上に試合記録と別の色でメモすることである。回答者はエビデンス記録箇所に「直観に反している」とか「日本でも同じことが言える?」とか「それは政府の公式見解だが学界動向とは一致しないような」などと走り書きしている。こうしておくことで、仮に判定に活用できなかったとしても、講評などで話の種に出来るため有用である。
3.結びに代えて:どのように活用すればよいのか
以上、エビデンスやそれの引用方法についての疑義を的確に言語化するためのプロセスを示してきた。ただし、冒頭で示した通り、これらを常にスピーチや判定に反映すべきだというのではない点に注意されたい。実際にその試合のなかで言明するべきかどうかはつねに状況次第である。
とはいえ、エビデンスの扱いについて色々と思考することや、そのまとまらない考えに試合や判定の枠外で言及することは2つの観点から有用であると思われる。ひとつは、試合のなかで個々のエビデンスについて気づいたことが、仮にその試合のなかで活用しきれなかったとしても、試合後に対策用原稿を作成したり、原典を調査して新たな活用方法を見出したりといった場面で大いに役立つということである。ディベートというコミュニケ―ションは試合単体で閉じたものではなく、その試合を含むシーズン全体を通じて学習を深化させるなかで発展してゆくものであろう。もうひとつの理由は、テクストの扱いの何たるやについて思考することが、ディベートで得た経験を他分野と接続する、あるいは他分野で得た知見をディベートに転用するうえでのひとつの経路となりうるからである。冒頭に回答者のディシプリンとディベートとのつながりに触れたが、こういった相互性が生まれる一つの契機として、世にある幾多の資料からディベートという競技におけるエビデンスが引用されるプロセスに対する考察が役立つこともあろう。それゆえ、御質問のごとき関心を抱いてくださることは大変うれしく思うとともに、今後も関心を抱いた主題があれば是非ご紹介していただきたく存する次第である。
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回答は以上である。これを公開することが誰かの利益になれば幸いであるし、ならなかったとしても、今日時点での私の考え方をアーカイブするものとしての意味はあるだろう。