2021年4月24日(土)


前日の日暮れと共に滋賀県から福井県へと移動した私ですが、旅は早朝の石川県から始まります。



およそこの半年後に亡くなった謙信にとっては、生涯最後の戦いとなり、謙信と織田軍が戦った唯一の戦でもあります。

実はこちらの史跡に訪れたのは、本当に思い付きでした。

初めての福井県入りを果たし、47都道府県の未踏地を減らした事で嬉しくなった私。

同じく未踏地である石川県も踏み入れちゃう? 的な…そんな感覚で急遽早起きをして訪れた訳ですが、

結果としてこの場所に来る意味があったのだと気付きました。

『手取川の戦い』とは、加賀国(かがのくに/現在の石川県南半部)手取川周辺(現在の石川県白山市湊町)で起きた戦いの事です。

この戦いの背景には、織田信長による北陸攻略がありました。

当時、北陸の北ノ庄(きたのしょう/現在の福井県)の統治を任されていた信長家臣『柴田勝家 しばたかついえ』を総大将とした織田軍が、加賀一向一揆衆の鎮圧と加賀国の平定を目的に侵攻をスタートさせ、

この動きに危機感を募らせた北陸の雄『上杉謙信』が立ち上がり、越前国(えちぜんのくに/現在の福井県敦賀市以北)を南下して織田軍を迎え撃った…というのが戦の大筋です。

もちろん福井県で予定した探訪地には、柴田勝家の居城跡である北ノ庄城も含まれていたわけですが、

この戦いの最中に起きた出来事が、後に北ノ庄城で起きる悲しい歴史の結末へと繋がる布石になっていたのだ…と、ここへ来たことで知りました。


こちらの石碑には『上杉に遭ふては 織田も名取川 はねる謙信 逃ぐるとぶ長』という『落首 らくしゅ/当時の世相を風刺した狂歌』が刻まれています。

名取川とは手取川の事で、戦いの様子を勢いに乗って追う上杉軍と飛ぶように逃げる織田軍と表現し、川で羽を休める鳥たちが慌てて飛び立つ様になぞらえていました。

つまりこの戦は、織田軍の大敗という結果に終わった訳です。
(とぶ長とは信長の事ですが、実際に信長は出陣しておらず、織田軍を指すものです)


天正4年(1576年)、柴田勝家は加賀国への侵攻を開始。

この動きを知り越前国を南下した上杉謙信は、能登国(のとのくに/現在の石川県能登半島)を支配するため、

能登国と越中国(えっちゅうのくに/現在の富山県)を結ぶ要所にある『七尾城』を侵攻します。

しかし七尾城は堅牢堅固(けんろうけんご)な城であったため、この戦いは翌年の天正5年(1577年)まで続くものの謙信は撤退します。

実はこの時の七尾城。

謙信の侵攻を受ける2年前…天正2年(1574年)に、城主であった『畠山義隆』が死去し、家督は義隆の遺児『畠山春王丸』が相続していました。

しかし春王丸は幼かったため、重臣『長続連 ちょうつぐつら』と嫡男『長綱連 ちょうつなつら』父子が実質的な差配を執っている状態だったのです。

謙信の侵攻に対して続連は籠城して抵抗し、そもそも強固な山城であった事もあり、結果として謙信軍の撤退に至りましたが、

長きに亘る籠城生活は城内の衛生環境を劣悪とさせ、疫病が蔓延する事態に陥ると共に、幼き城主/春王丸は病死してしまいました。

続連は、この様な状態では再度 謙信軍に攻め入られたら次は敗北すると考え、三男の『長連達 ちょうつらたつ』を織田信長の元へ送り援軍を頼みました。

即座にこれを快諾した信長は、越前国で加賀平定に苦戦していた柴田勝家の元に、丹羽長秀や前田利家、滝川一益、羽柴秀吉らを派遣し、総勢3万とも4万とも言われる軍勢を構成し七尾城への援軍として送ります。

しかしこの時七尾城では、続連が実権を握っている事に不満を募らせた重臣らによる謀反が勃発し、続連を始めとする長一族は惨殺され七尾城は落城しました。

この謀反の裏には、信長と縁のある続連の一族を亡きものにするため、謙信による他の重臣への調略があったとも言われていますが、

どちらにしても織田軍は七尾城の落城を知らぬまま進軍する事となったのです。


梯川(かけはしがわ)を渡り手取川へと進軍する途中、前々から勝家とはウマが合わなかった秀吉が、突如兵をまとめて離反するという事態が起きます。

秀吉が七尾城の落城を知っていた…という事ではなく、総大将としてまとめる立場にある勝家と、従う立場となる秀吉の間にいざこざが起きたのだと思われます。

この事により織田軍の足並みが乱れ士気が下がったところに、大雨の影響で水かさの増した手取川を渡る事となり、

さらに無事に渡り終えたというタイミングで、今度は七尾城の落城と、既に手取川近くの松任城(まっとうじょう)に上杉軍が入城している事を知るのです。

弱り目に祟り目となった勝家は撤退を命じますが、今渡ったばかりの増水した川を引き返すには体力が乏しく、更には鉄砲や火薬といった武器が濡れて使い物にならないという状況でした。

ここぞと攻撃を仕掛ける上杉軍から、勝家は命からがら逃げ出しますが、大半の兵がこれにより急流へと飲み込まれていったといいます。

さて。この時の秀吉は? というと、長浜城へと戻りどんちゃん騒ぎを催し、金銭をまきちらしたと言われています。

戦線離脱という軍令違反を犯した訳ですから、本来であれぱ解任追放はおろか切腹を命じられたとしてもおかしくはありません。

つまり信長に対しての謀反と取られないために、もしもそうであったとするならば、兵糧武器を買い集めるために軍資金を貯えるべきところを、逆の動きをとる事で信長に対しての潔白を表明した訳です。

これを聞いた信長は苦笑をもらしたといわれ、秀吉への疑いは見事に晴れました。

そして奇しくもこのタイミングで、大和国の信貴山城(しぎさんじょう)で反乱を起こした松永久秀への討伐命令が下ったのです。

この事件を介して、戦線離脱などという軍令違反を犯しておきながらもその行動を正当化させた秀吉に対して、勝家の怒りはかなり増幅したでしょうし、

狡猾にもみえる手段を用いてまでも、結果的には自分を正当化させた秀吉は、更に波に乗って様々な思い付きを神がかったかのごとく展開させていきます。

代々受け継がれてきたものや慣例慣習的なものを重んじる勝家と、

失う物が無いからこそ自由に発想し、それ故に手に入れた物を再び失いたくはないと執着する、まるで相反する生き方を自身の中に抱える秀吉。

ここまで違いのある2人がこの後も相入れる訳もなく、柴田勝家にとっては自身の居城であり、終焉の地でもある『北ノ庄城址』に向かうため、福井県へと戻ります。

手取川の戦いでの一件は、それぞれの今後の生き方に大きく作用したのではないか? と、感じながら…。

ーその⑦へと続く