2020年12月11日(金)


前回の旅を終えた頃…コロナの影響からストップしていた講座が再開したとの連絡が入り、私は静岡県富士宮市へと向かいました。


消えゆく虹の向こう側~女たちの生きた証~ ーその①ー 

※前回の旅とはこちらの記事から始まる旅です。ぜひお読みくださいね。


私の住む神奈川県県西地区から富士宮は、そう大して遠くはないので通常は日帰り圏内なのですが、


今回は中日1日を挟んで講座が続くため、宿泊する事にしました。


そうと決めたらどこか巡りたいなと思い、富士宮市を調べ始めた途端、目に入った情報にびっくりしました。


『織田信長の首塚』


前回の旅の終わりに信長の最後の城『安土城跡』を巡り、本能寺の変で自刃した信長の遺体は未だ見つかってはいない…というお話をしましたが、


その遺体が埋葬されているという話が残る場所のひとつが、富士宮にあったのだと初めて知ったのです。


消えゆく虹の向こう側~女たちの生きた証~ ーその⑥ー 

※安土城の記事はこちらをご覧ください。


しかも首塚だというのですから、かなり興味深いです。


本能寺のあった京都から遥か離れた静岡の…それも富士宮になぜ首塚が?


さらに言えば、なぜこのタイミングで私は富士宮に来る事に?


驚きと興奮でワクワクしながらこの日を待ちました。


初日は移動と講座でしたので特に観光はせず、終了と共にお隣の富士市に取った宿へと向かいます。



すると、道中で見えた富士山があまりにも綺麗だったので、道筋にあった商業施設に立ち寄り、その姿をカメラに収めました。


駐車場から施設に歩いていく途中の川に気配を感じて振り向くと、白鷺がぽつんと立っていました。


白鷺は神のお使い。
彼らに間近で出会う時…それはこの旅が導きと思える素晴らしいものになるお印と、私は思っています。


この出会いでテンションが上がった私の目の前には素晴らしい夕焼け空が広がり、感動に心が震えます。

目にする物の全てが神様の祝福に包まれている感じで、翌日の旅の行方はきっと意味のある事で溢れている! という確信を感じつつ、朝を迎えました。


2020年12月12日(土)

この日の富士山は頭にしっかりと笠をかぶっていました。

笠雲はこの後の天気が下り坂になるかもしれない予兆でもありますが、珍しいため縁起の良いものとも言われています。

昨日から引き続き現れる吉兆の印を受けながら、目的地へと向かいます。


富士川沿いの身延線を走っていると、高速道路上に観覧車が見えました。

一般道からも立ち寄れそうだったので寄ってみると、東名高速道路の富士川サービスエリアと連結している『富士川楽座』という道の駅でした。

見晴台からは富士川越しに、笠雲の外れた富士山が裾野まで綺麗に見えます。

富士川の流れを見ていると、『富士川の戦い』という言葉がふいに思い浮かんだので、早速調べてみました。

治承・寿永の乱。俗に源平の戦いと呼ばれる一連の戦役のひとつに、『富士川の戦い』があります。

時は治承4年(1180年)。

伊豆国に流されていた源頼朝は、以仁王の令旨(りょうじ)を奉じて、

舅の北条時政や土肥実平・佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害しました。

しかし続く石橋山の戦いで、頼朝は大庭景親・伊藤祐親率いる平氏軍に惨敗してしまいます。

山中に逃げ込んだ頼朝は私の地元真鶴から船に乗ると、安房国(あわのくに/現在の千葉県南部)へと逃れ、再挙進軍します。

これに東国武士が参集し、頼朝軍は大軍へと膨れ上がりながら鎌倉へと入りました。

同じ頃、信濃国では源義仲(みなもとのよしなか/木曾義仲)、そして甲斐国で武田信義が挙兵します。

武田軍は駿河国目代を討ち取り、都から派遣された『平維盛 たいらのこれもり』率いる追討軍と富士川を挟んで戦った…というのがこの戦です。

追討軍総大将の維盛とは、平清盛の嫡子・重盛の子…つまり嫡孫で、その容姿は光源氏と例えられる程に美しかったと言われています。

父・重盛が早世した事で叔父の宗盛が棟梁となると、維盛は一門の中で徐々に孤立していき、

平氏一門が都落ちした後の戦『一ノ谷の戦い』前後に、密かに逃亡したとされます。

これ以降は文献により諸説あり、
高野山に出家し熊野三山を参詣すると、那智の沖にて入水した。
または、熊野に参詣した後に都へ上って後白河法皇に助命を乞い、法皇と頼朝の交渉に従い関東下向中に相模国の湯下宿で病死した。
はたまた、沖縄に上陸した南走平家の祖ではないか?
などなど。

様々な説と共に、正式な死亡日や死因は不明…と言われる人物です。

そうした逸話の残る維盛の墓が、富士宮の地にあるという情報を見つけました。

またしても謎の墓伝説。
これは行ってみる価値があると思い、急遽ルートに加える事にします。

さて。現地でのお話を進める前に、まずは富士川の戦いに至るまでの維盛と、その父・重盛のお話をしましょう。


まずは維盛の父、重盛のお話です。

こちらの記事で詳しく書いていますが、重盛は父・清盛に従って『保元の乱』や『平治の乱』に参戦して功績をあげ、順調な昇進を目覚しく得ていきます。

病を理由に出家して福原へと退隠した清盛に変わり、一門を統率する立場となった重盛ですが、

嫡男でありつつも継室・時子(二位尼)の子・宗盛や徳子(高倉天皇皇后・建礼門院)とは母が異なるうえに、

有力な外戚の庇護もなく、平氏一門の中では孤立気味でした。

とはいえ重盛は、当時最も後白河法皇に近い立場であり、清盛の後継者として期待される人物でもありました。

しかし重要案件については、常に清盛の判断が優先されていて、自らの意思や行動はかなり制約される状況にあり、

後白河法皇と清盛の間に不協和音が生じ始めた時にも、重盛は有効な対策も取れぬまま病に倒れ、

熊野に参詣した後に出家すると、父に先立ち病没してしまいます。


こちらの記事で、熊野三山に訪れた際に参詣したそれぞれの神社で、重盛のお手植えとされる木々をたくさん見ました。

この時は平氏にとっての熊野参詣の重要性を受け取り、常に清盛の側にいた重盛が後継者として一門を率いた全盛期に植えた物だと思っていたのですが、

もしかしたら…病に倒れ後世の事を祈りながら参詣した、この時に植えた物だったのかもしれません。

このような背景のある中ですから、叔父の宗盛が棟梁となった状況下では、維盛をはじめとする重盛の子どもたちが一門の中で孤立していくのも無理はありませんでした。

ここからは、維盛のお話になります。

維盛は、以仁王の挙兵の際には叔父・平重衡(たいらのしげひら/清盛と二位尼時子の三男)と共に、反乱軍を追討すべく宇治へと派遣されます。

立場を挽回したいと勇む維盛は、乱の鎮圧に成功すると、兵を南部(奈良)へとすすめようとしますが、

維盛の乳母父(めのと)で侍大将の伊藤忠清に諌められます。

この戦の約3ヶ月後、源頼朝ら源氏の挙兵に対して東国追討軍の総大将となった維盛。(富士川の戦い)

出発しようとする維盛を、日が悪いという理由でまたしても忠清が諌めます。

内輪もめをしているうちに結局は出発が遅れ、その間に各地の源氏が次々と兵を挙げて進軍している情報が広まった事で、

兵員が思うように集まらず、凶作で糧食(りょうしょく)の調達もままなりませんでした。

何とか兵員を増やしながら富士川で武田軍と対峙した追討軍でしたが、その軍勢は4千騎ほどでしかなく、

更に逃亡や敵方への投降などで2千騎ほどまでに減ったといいます。

鎌倉から頼朝も大軍を率いて向かってくる中、もはや平氏軍に勝ち目がない事は誰の目にも明らかでした。

それでも維盛は、武田軍から届けられた挑発的な書状に対して、退き引くつもりはなかったといいます。

しかし今回も忠清から再三撤退を主張され、兵たちも士気を失い賛同している事から、無念の撤退を余儀なくされるのです。

富士川の陣から撤収の命を出したその夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢は、慌てふためき総崩れとなって敗走します。

維盛もわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰ると、清盛は維盛の醜態に激怒します。

『何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか。おめおめと逃げ帰って来たのは家の恥である』とし、維盛が京に入る事を禁じました。

その後の『倶利伽羅峠の戦い』においても、源義仲の夜襲に大混乱した平氏軍…義仲追討軍10万の大半が、断崖から谷底へと転落し壊滅します。

この戦いでも総大将をつとめていた維盛でしたが、命からがら京へと敗走し、大軍を失った平氏はもはや防戦のしようがなく、

安徳天皇を伴って京から西国へと落ち延びていくのです。

重盛・維盛の人生を振り返ってみると、なんとなく裏にうごめく陰謀を感じます。

継室の時子(二位尼)の子どもたち…特に宗盛は、先妻の子であった重盛とその一族を疎ましく思っていたかも知れません。

もしくは、そこに付け入る輩がいた可能性も否めません。

維盛を度々邪魔した伊藤忠清は、都落ちには同行しないで出家し、密かに源義仲との和睦を結ぼうとしていたという事を考えれば、

上記した『さも老婆心からのアドバイスにも思える内容』は、誰かとの密約の上で行っていたかもしれない…とも思えるのです。

この時の平氏は、外敵となる源氏ばかりではなく身内と呼べる一門の中でも互いの真意を怪しみ牽制しあっており、

特に維盛にとって周りは皆…敵ばかりという状況だったのかもしれません。


維盛のものと伝承される墓は、富士川の支流・稲子川を見下ろす棚畑の中にひっそりとありました。


綺麗に手入れされた墓前に手を合わせ、静かに流れる川音と共に維盛の人生を思います。

維盛にとって屈辱的な戦を経験した富士川の近くに、もしも本当に隠居したとするならば、その理由はなんなのか…。

そんな事を考えながら次の目的地へ向かおうすると、すぐ近くに観音様が祀られている表記をナビ上に見つけました。

お導きを感じて、ご挨拶に立ち寄る事にします。


『稲子観音』

浄泉寺跡に今も残る聖観世音菩薩様が、その優しい微笑みで稲子の町を見守っていらっしゃいました。


聖観世音菩薩とは六観音の1尊であり、大慈の観音様として餓鬼道を化益(けやく/教化して善に導き、利益を与える)するといいます。

生前の罪の報いで餓鬼道に落ちた亡者に対しても、その大きな愛で救ってくださる観音様。

この出会いに感謝し、ルートへと戻ります。


すると、観音様にお会いしに行ったおかげでナビが選択した峠道に、こんな看板が立っていました。

『桜峠  …富士川の合戦で敗れた平維盛が柚野・延命寺より稲子へ入る際に桜の杖を刺したとも伝えられている…(抜粋)』

この一文を見た時に本当にびっくりしました。
まさに観音様が導いてくださったとしか思えず、早速延命寺へと向かう事にします。


『柚野山 延命寺』

維盛の墓前で感じた疑問の答えが、このお寺にありました。




熊野に参詣した後の重盛の足跡が、この寺には伝承されています。

治承3年(1179年)。重盛は熊野を詣でたのち、富士登山を志し駿河へと入りました。

重盛は稲子に用意された館に滞在のみぎり、当寺の延命地蔵を深く信仰し、

堂宇を造営すると、中将姫が刺繍した阿弥陀三尊雲越之来光図の他、不動尊1軸と河原左大臣筆の1軸を寄進したといいます。

重盛は程なく没し、元暦元年(1184年)子の維盛が父の牌を納めた…と伝わっているのです。

元暦元年というと、まさに一ノ谷の戦いが起こった年。

維盛がこの戦の前後で逃亡した…とすれば、この年にこちらに居たとしても辻褄は合います。

戦線を離れた維盛は、自身と同じように辛い一門の中での立場を経験していた父を恋しく思い、この地へとやってきたのかもしれません。

そしてかつて父が住んだ稲子の地に隠居し、父の墓守をしようと考えたとすると、この地に維盛の墓がある事も納得できます。

ちなみにこちらの寺紋は平氏の家紋と同じ『アゲハ蝶』です。

そうした事からも、かなり信憑性のある伝説かもしれませんね。

勢力争いに翻弄され歴史の表舞台からは降りた重盛・維盛父子かもしれませんが、

この穏やかな地に住み余生を送ったのならば、むしろ幸せであったと感じたのではないか? と、思うのです。

ーその②へと続く