姫路城に到着しました。
遠くからでもその美しさが際立つ白いお城を見て、あっ!と思い出しました。
そう言えば姫路城は、この白さから白鷺城と書いて『はくろじょう』とも呼ばれていたのです。※白鷺城の由来は諸説あり
先程の五色塚古墳でふと思った、日本武尊の神使『白鷺』が、ここで繋がって来たのか!と腑に落ちました。
様々な鳥の導きは、この白鷺城に繋がっていたのだと納得出来たのです。
現在この天守を含めた数々の遺構は、国宝や重要文化財に指定されている他、ユネスコの世界遺産に登録、日本100名城などにも選定されています。
5重6階建ての天守。
上に行けば行くほど階段は狭く急勾配になります。
手すりや滑り止めが施されているので、スリッパでも何とか安全に昇り降りが出来ますが、当然これは現代になってから取り付けられた物な訳です。
ふと昔を想定してみた時に、心配になりました。
敵襲などの緊急事態に、これが裸足や足袋の生活下で駆け昇ったり駆け降りたりするはずです。
各階に取り付けられた長槍や薙刀を掛けていたであろう痕跡を合わせ考えたら、非常に危ないなぁ…と思いました。
そしてついつい、
『もしかしたら武器を片手に階段を駆け降りる中で、落ちて怪我をしたり…ともすればうっかり亡くなってしまうなんて事もあったかもしれない。
でもきっと当時ならば、その様な形で亡くなっても、武運のない奴だと片付けられてしまったかもなぁ…』
と、ボヤいてしまったのです。
決してディスった訳ではなく、現状から想像しただけの事だったのですが、どうやらこの場所に残る方たちを怒らせてしまったようで、
私は階段から足を滑らせ落ちてしまいました。
随分派手な感じで落ちたのですが、不思議なことに怪我はまったくなく、ただびっくりしただけで終わりました。
どうやら過ぎた口を聞いたので、小突かれたといった感じかも知れません。
誤解を招いてしまった事に反省です。
そうか!
西宮神社で青鷺に会った時に姫路城は行程になかったけれど、もしかしたらその時から…いや、前日の地元で会った時から既に導きが始まっていたのかもしれないと思いました。
この旅を導き、たくさんの気付きや出会いをくれた彼らに感謝を伝え、姫路城を後にします。
せっかく姫路まで来ましたから、もう一箇所寄りたい場所がありました。
【廣峯神社 ひろみねじんじゃ】です。
御祭神は
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
五十猛命(いそたけるのみこと)
全国にある牛頭天王(ごずてんのう)の総本宮とされています。
※ただし京都八坂神社も同様に主張。
牛頭天王とは日本における神仏習合の神で、
○釈迦(しゃか)の生誕地に因む祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守り
○神蘇民将来(そみんしょうらい)説話の武塔天神(むとうてんじん)と同一視
○薬師如来(やくしにょらい)の垂迹(すいじゃく=化身)
○素戔嗚尊の本地(ほんち=本来の姿)
というたくさんの顔を持つ神様なのです。
陰陽道の祖である『吉備真備(きびのまきび)』が創建した神社である事から、かつて陰陽師たちの聖地と賑わったそうです。
安倍晴明とも血のルーツが繋がる私ですから、ぜひともお参りしたい神社でした。
本殿の裏側には『九星詣り』と書かれた看板があり、本殿の裏の壁に空いた自分の星の穴に向かって願いを話すのだそうです。
私も自分の星の穴に向かって、神様にお話をしてきました。
表に戻ってみると、黒田家三代のゆかりの神社であった事が分かりました。
重隆が祖父。職隆(もとたか)が父。そして孝高(よしたか)が通称 黒田官兵衛(くろだかんべい)です。
戦国時代もたけなわな天文十五年、播磨国姫路城で生まれた黒田官兵衛。
後に天下人となる織田信長が十三歳、豊臣秀吉が十一歳、徳川家康が四歳という年です。
当時播磨国を治めていた武将たちのうち、姫路城主であった小寺氏に黒田家は属し、代々家老職を務めていたのだといいます。
父の隠居により、官兵衛は二十二歳の若さで小寺家上席家老として政治に手腕を振るい、信長や秀吉・秀頼に仕え、軍師と言われる程に活躍し名を残した武将です。
そんな黒田家と密接な関係にあった神社でもあったのだと知りました。
今年8月には境内に官兵衛神社が建立されるようです。
官兵衛ファンや戦国ファンの参拝者で賑わいそうですね!
秀吉公に『わしの没後に天下をとる人物がいるとすれば、黒田官兵衛しかいない』と言わしめた官兵衛。
その言葉を聞いて身を処するかのように、四十四歳で隠居し黒田如水と名乗ったのは、水の如し…つまり天下をとる野望など毛頭ありませんという意思表示でもあったと言います。
元々、連歌や和歌を好んでいた官兵衛は、戦よりも天下よりも、風雅な人生が望みだったのかも知れませんね。
ーその④へ続く