880冊目『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬 早川書房) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

第十一回アガサ・クリスティー賞受賞作である。選考委員が全員最高点を付けたというのは史上初だそうだ。たしかに四五〇頁越えの大長編にもかかわらず、細部まで事実をトレースした独ソ戦の模様に加え、圧倒的な軍事知識でリアリティの強度が見事に達成されている。まさに唯一無二の戦争小説である。主人公は、ロシア人の少女セラフィマで、イワノフスカヤ村という牧歌的な小さな村で暮らしている。母に教えてもらった銃で日々獲物を狩り、質素ながらも幸せな生活を送っていた。しかし、そこに突如として現われたドイツ軍が、セラフィマの大切な村の仲間を一人残らず殺してしまう。一度は死ぬことを考えたセラフィマだが、母を殺した敵に必ず復讐することを誓い、狙撃手としてソ連の戦闘員に加わる決意をする。

 

軍事用に転用できる資源があるわけでもなく、豊富な人材が大量に埋もれているわけでもないイワノフスカ村のような小さな村は、それまでであれば国家の戦争とは全く無縁に存続できたはずだ。しかし、軍事的に何の魅力もない小さな村でも、敵に襲撃され、生き残った人物も戦闘員に組み込まれてしまうのは、この時代がまさに総力戦であったことを物語る。戦争は、戦闘員のみが行う局地的な争いごとではなくなり、後方支援や物資補給のために国民のすべてが駆り出される総力戦となった。この総力戦の時代において社会の全体主義とほぼ無縁に過ごせたものはほとんどいなかっただろう。無垢で優しい少女セラフィマも、時代の波には逆らえず、敵を殺す戦闘員になってしまうのだ。

 

総力戦時代の大きな特徴のひとつは、プロパガンダである。大国が、国家の命運をかけて闘う以上、戦争は必ず勝たなければならず、絶対に敗北は許されない。国民の士気を高めるためにも、敵は「悪魔」でなければならない。ソ連は、もしこの戦争に負ければ、ファシストが世界を支配することになると煽り、ドイツは、もしこの戦争は負ければ、ベルリンの女性は皆、ソ連兵にレイプされてしまうだろうと、負けじと煽った。戦時中のポスターには、敵国人が醜く描かれ、まさに敵であることが「本質」化する。本書のタイトル『同志少女よ、敵を撃て』の「敵」は、主人公の立場からしてみれば、それは憎きドイツのことである。そして、主人公の目線で物語を追いかけてきた読者の中には、主人公がドイツ兵を撃ち殺したとき、その復讐の達成を喜び、喝采の拍手を送るものもいるかもしれない。

 

しかし、ここで冷静になって考えてみよう。戦争の「敵」とは一体、何なのだろうか。たしかに、こちらに銃を向けている相手国の兵士は敵に見えるかもしれない。しかし、もっと視野を広げてみれば、慎ましくも幸せに暮らしていたイワノフスカ村の人々の生活を奪ったソ連という国家も同じく、敵ということになりやしないか。セラフィマは、ドイツ人女性をレイプするソ連兵の存在を知り、嫌悪感を抱き、やがて目の前でその現場を見たとき、同胞のソ連兵を射殺するのだが、このことは「敵」の複雑性を物語っている。セラフィマにとって女性を蹂躙する者は敵だし、革命家にとっては資本家こそが敵だ。敵は何も国境線の外側のみにいるわけではない。本書のタイトルにある「敵を撃て」は、敵とは一体誰のことなのか、という問いかけとしても機能している。その解釈はそれぞれだが、私は、安易に友敵思考に染まってしまう自分の弱い心こそ、一番の敵だというふうに思った。