817冊目『夜蜘蛛』(田中慎弥 文春文庫) | 図書礼賛!

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田中慎弥『夜蜘蛛』は、実は五年くらい前に一度読んだ。だから今回は再読である。初読の時に受けた衝撃は相当なもので、そう簡単に言葉が出てこなかった。芥川龍之介は、「偉大な作品の前にはただ黙るほかない」(「文芸的な、あまりに文芸的な」)みたいなことを言っていたが、それはこういう作品を言うのだろうと思った。小説『夜蜘蛛』は、戦時と戦後の話であり、父と息子の話であり、天皇と庶民の話でもある。タイトルの蜘蛛のように、複数の足を持った主題が不気味に蠢動しており、気づけば読者は蜘蛛に捕まった蝶のように作品の暗部に囚われている。

 

小説『夜蜘蛛』の大部分は、ある老人の書簡で構成されている。自身の生い立ちに始まり、戦争の記憶、女性関係、家族、そして父のことをが非常に丁寧に書かれているわけだが、正直、一体、何を読まされているのか、といった思いを禁じ得ない部分もあるが、この訳の分からないこの書簡も、一気に緊迫感を放つ局面がある。戦時における、父の中国大陸への出征である。特に死んだふりをしながら敵兵に囲まれている場面は、背筋が凍るほどの臨場感がある。父は中国大陸へ出征し、右足を負傷しながらも、なんとか生き延びて日本に帰ってきた。当時、少年だった、この手紙の書き手の老人は、父からこの手の戦争の武勇伝をたびたび聞いていたらしい。

 

その子供は、事態をまだうまく整理できず、さらには子供特有の想像力を持て余していたから、父が体験した中国大陸での戦争を、忠臣蔵や日露戦争での逸話とごちゃまぜに受け取ってしまう。そして、「お父さんは、乃木大将みたいだね」という言葉を無造作に言ってしまい、これが昭和の精神に殉ずる父の自死の引き金となってしまうという話なのだが、とはいえ、息子に「乃木大将みたいだね」と言われてくらいで自死するものだろうか。いくら考えてもこの理路が埋まらない。しかし、言葉の重みというのは人それぞれ違うのであって、この小説をある種教訓的に読めば、言った本人さえも覚えていない、不用意な言葉が、時に人を自死まで追い詰めるものであることということだろう。

 

さて、タイトルにもなっている「夜蜘蛛」だが、書簡の書き手が赤子だった頃、敵の空襲の際に自宅の押し入れに避難していたときに、暗闇の中で目の前に垂れてきた一匹の蜘蛛のことである。老人は、書簡で、あのとき蜘蛛を殺しておけば父は死ななかったのではないかと書いているが、この感覚が非常に理解しづらい。「夜蜘蛛は親でも殺せ」という言葉はあるが、そうした迷信に振り回されているわけでもなかろう。しかし、逆に考えてみれば、そうした迷信にすらすがりたくなるほど、老人は、父を自死にまで追いやった自分の言葉を悔やんでいるということなのかもしれない。蜘蛛よりも不気味なのは、言葉なのだ。