776冊目『舎弟たちの世界史』(イ・ギホ 新泉社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

韓国文学はこれまでにいくつか読んできたが、イ・ギホ『舎弟たちの世界史』がもっとも面白かった。軽快な語り口で物語がテンポよく進む心地よさに加え、韓国現代史の理解の一助にもなる。小説『舎弟たちの世界史』が扱うのは、全斗煥政権下の韓国である。全斗煥政権は、反共を国是とする軍部独裁政権であった。全斗煥は、前任の朴正煕と同じく、軍事クーデターで政権を握り、第十一大統領に就任したが、徹底した赤狩りによる恐怖政治を作り上げた。全斗煥政権下で、多くの無実の市民が投獄され、拷問にかけられたことを考えると、軍部独裁政権とは、なによりも自国の国民に対して戦争を仕掛ける存在なのだということに気づかされる。ヒット作『サニー』(2011年)は、全斗煥政権の時代を扱っているが、クラスの担任が反共標語を募ったり、私服警官が闊歩していたり等、軍部独裁時代のきな臭さを随所に出ている。

 

一九八二年に釜山アメリカ文化院放火事件が起こっている。恥ずかしながら、私はこの小説を読むまで、この事件を知らなかった。全斗煥政権の誕生直後、光州民主化闘争(1980年)が起った。光州事件は、『タクシー運転手』、『つぼみ』、『なつかしの庭』等、多くの映画作品が作られるほどに、軍部独裁時代の韓国の悲しい現代史を象徴し、今でも韓国人の心に深く残っている事件である。ソウル駅回軍により、事実上、光州だけで孤立する形で民主化運動がなされ、全斗煥は空挺部隊を全力投入し、同胞に銃をぶっ放し、徹底的にこの運動を弾圧した。ここで注意したいのは、韓国において、このような大規模な軍の出動がある場合、韓米同盟上、必ず米軍の許可が必要であることだ(これは今でもそうで、平常時の作戦指揮権は韓国にあるが、有事の作戦指揮権は米軍にある)。当時の在韓米軍司令官だったジョン・ウィッカムの承認がなければ、光州の虐殺は不可能だったのだ。

 

つまり、韓国人の虐殺に米国も加担している。こうして背景を知ってこそ、釜山アメリカ文化院放火事件(略して、プ三バン)に象徴される韓国の反米意識が分かろうというものだ。独裁政権全斗煥だけでなく、その政権を影で支え続ける米国の存在もまた韓国にとって大きな災厄にほかならない。李祥雨は、「第二次大戦以来、アメリカが韓国に求めてきた二つの柱は『親米・反共』と『民主化』だが、これが矛盾する場合、アメリカは常に前者を優先してきた」(710冊目『朴正煕時代』(李祥雨 朝日新聞社)と書いているが、たしかに、自由で民主的なアメリカ大帝国は、朝鮮戦争時、ノグンリで無辜の市民を虐殺し、軍事クーデータを興した朴正煕政権をあっさり認め、光州での虐殺も影で承認してきた黒幕的存在である。反共で結託する全斗煥と米国は、国家保安法を恣意的に適用し、少しでも怪しいものは片っ端から拘束した。全斗煥政権とは、そんな時代だったのだ。

 

『舎弟たちの世界史』は、釜山アメリカ文化院放火事件に巻き込まれたナ・ボンマンを主人公とした物語である。ナ・ボンマンは孤児でありながら、実直な男だ。キム・スニという愛すべき恋人もいる。原州でタクシードライバーをしているナ・ボンマンは全く無関係にもかかわらず、放火事件を幇助した容疑者としてリストアップされてしまう。なぜ、そんなことになったのか。実直なナ・ボンマンは交通事故を起こしたことを正直に報告するために警察署に向かったが、文盲のため、交通課がどこにあるかわからず、間違って放火事件を担当している情報課に行ってしまい、そこに台帳に唯一書ける自分の名前を書いてしまう。しかし、その台帳は放火事件のテロ容疑者リストだったのだ。ちょっとしたボタンの掛け違いから、ナ・ボンマンは重要犯罪人となり、あげくにはその罪を自ら認めてしまうというカフカ的な展開になっていくのである。

 

身に覚えのない罪を認めてしまう。もはや、これは冗談としか言いようがない。『舎弟たちの世界史』を動かしているのは、この喜劇としか言いようのない不条理を、人々が大真面目に演じてしまう時代精神である。役者あとがきによれば、ナ・ボンマンのモデルは、国家保安法によって罪を捏造され、ついに死刑に処された男性らしいが、すべてが、軍部独裁政権の出来レースによって運営されている以上、無実の罪で死刑になったものもいたにちがいない。というより、全斗煥政権のときに創設された国家安全企画部は、まさに政権の都合によって、ありもしない罪をでっち上げるために作られたものだった。政権自体が冗談のような存在だったのである。もちろん、全斗煥政権で起こった光州事件(1980年)、釜林事件(1981年)、ソウル大生拷問死事件(1987年)は、悲劇としか言いようがない。しかし、「喜劇さえもがすでに悲劇の一部」(「解説」)であるなら、私たちは喜劇に潜む悲劇を嗅ぎ取る感性を研ぎ澄まさなくてはならないだろう。