722冊目『竹取物語』(星新一訳 角川文庫) | 図書礼賛!

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『竹取物語』に星新一の訳があるとは知らなかった。読んでみると、しっかりエンタメとして完成していてなかなか面白かった。古典作品を原文で味わうことが難しい中学生におすすめしたい。星新一の現代語訳だが、いろいろな工夫がなされている。大胆な意訳や改行を多くして軽妙なテンポを作っている。ときには、「ちょっと、ひと息」などといって、訳者の星新一が顔を出したりもする。いちいち原文と照らし合わせて読んだわけではないので、他にも多くの趣向がなされているのかもしれない。こうなってくると、現代語訳といっていいのかどうかという話になってくるが、そもそも古典の現代語訳って何をどうすることなんだろう。

 

古文の現代語訳は、結構難しい。私は都内の塾で国語を教えているが、古文の現代語訳については文法的要素を忠実に反映した訳を作るように指導している。しかし、これは現代語訳のひとつの側面でしかない。他者を意識して言葉が発せられた以上、そこには必ず言語的効果というものがある。事実だけを羅列した文章は読みづらい。そこには効果がないからである。だから、語法に忠実な訳を仕上げようとすることばかりに意識が集中してしまうと、表現の「効果」という側面が見えなくてなってしまう可能性がある。新全集や集成などの訳が大概つまらないのは、こうした効果を勘案しないで現代語訳がなされているからだ。

 

星新一は訳の方針として、次のように述べている。「心がけた第一は、できるだけ物語作者の立場に近づいてみようとしたこと。」(解説)。これは単純な語法的な訳作業に終始するのではなく、作者が物語に込めた躍動感やリズムまで訳に反映しようという態度である。つまり、表現の効果をしっかり拾っていくことである。近年、小説家による古典作品の現代語訳がちょっとしたブームになっているようである。河出書房新社『日本古典文学全集』(池澤夏樹個人編集)などが典型だが、表現効果に知悉しているプロ作家たちによる現代語訳は、アカデミックではあるが無味乾燥な現代語訳が横行している現状において、古典再生の福音となるかもしれない。

 

あと、備忘録的なものも少し書いておきたい。

『竹取物語』を読んでて不思議に思うことがある。それは作品そのものへの疑問というよりも、日本古典文学史のなかでの位置付けのほうにある。『竹取』以降の物語作品を読んでみても、天空世界まで射程に入れた『竹取』のスケールの大きさが、まったく受け継がれていない。また『竹取』には、帝をはじめ、貴族階級の権力性がきわめて弱い。この作品は当時のインテリ階級が書いたのはほぼ間違いないが、権力の弛緩した姿が描かれる作品が享受されたことも、興味深い。『竹取物語』についてはまだ考えることがありそうだ。