720冊目『戒厳』(四方田犬彦 講談社) | 図書礼賛!

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四方田犬彦の半自伝的小説である。瀬能は、大学のゼミの飲み会で、韓国人の留学生が提案した韓国の大学での日本語講師の仕事を、酔っ払って記憶も定かではない状態で引き受けてしまった。これが瀬能にとっての本格的な韓国との出会いとなる。それまでフランス映画や記号論を勉強していた瀬能は、韓国など全くの門外漢。ハングル文字さえ読めやしない。大急ぎで韓国語を勉強し、韓国本を読み漁った後で、韓国に向けて旅立った。瀬能が韓国へ渡った日は、1979年。朴正煕体制の最終年のときである。漢江の奇跡と呼ばれる経済成長を達成しつつある韓国であったが、それでも日本との国力の差は歴然としていた。当時、韓国旅行といえば、ほとんど日本人男性のキーセン観光であり、まだまだ貧乏な国であった。そんななか、瀬能は日本語講師として韓国の地に降り立った。これは、IMF危機以前、民主化以前の韓国社会の雰囲気を伝える証言的な私小説である。

この時代の韓国社会の雰囲気を一言でいうと、反共ということになるだろう。当時の韓国の映画館には、スクリーンに禁煙と反共という文字が同時に映し出された。『ボクの韓国現代史 1959-2014』(621冊目)の本に書かれてあって驚いたが、試験科目に「反共」があったくらいである。「パルゲンイ」という言葉は、人々を震え上がらせる言葉であった。「パルゲンイ」とは、アカ野郎を意味し、北のスパイや共産かぶれの人々に対するレッテルである。「パルゲンイ」と認定されたら、もう韓国では生きていけない。韓国の民主化をテーマとした映画『1987』には、治安対策本部のパク本部長の次のようなセリフがある。「アカの逮捕を邪魔する奴は無条件にアカとみなす」。こうした反共政権を下支えしているのが、国家情報院(KCIA)である。瀬能も、国家情報院に理由も分からぬまま国家情報院に連行される場面があるが、反共の軍部独裁政権下で生きることは、いつでもこのような例外状態が生じることを覚悟することである。
 

今となっては信じられないが、当時においては、北朝鮮よりも韓国の方にマイナスイメージがあった。日本の左派は、北朝鮮は礼賛しつつも、韓国に近づこうとすることはなかった。当時の左派は、韓国に取り返しのつかない罪悪を行ったからこそ、安易に韓国に足を踏みいれてはいけないのだ、という奇妙な論理を振りかざしていた。この左派の態度については、瀬能は次のように述べる。「わたしはこの屈折した論理を逃げ口上だと受け取った。要するに韓国を目にしたくないのだ。彼らの説く疚しい良心こそが、韓国の現実を拒絶しようとする、旧宗主国側の傲慢のように感じられた」(313頁)。こうした旧宗主国の傲慢さは、一般大衆のレベルにまで浸透していた。瀬能は友人から「なんで、韓国なんかにいるの?」という無神経な質問をたびたび受けた。たしかに、李承晩から朴正煕にいたる反共政権の独裁ぶりはひどいものであったし、国外からも大きな非難の的となった。このことが、北朝鮮帰国事業において、在日コリアンをして韓国への帰還を諦め、北朝鮮へ渡るマインドを形成させる遠因となったりもした(669冊目『北朝鮮帰国事業』695冊目『北朝鮮帰国事業の研究 冷戦下の「移民的帰還」と日朝・日韓関係』)。

 

瀬能は、当時においては、誰も韓国の現実を見ようとしなかった日本人のなかで、しっかり韓国を見ることのできた数少ない日本人の一人である。この自伝的小説は、朴正煕体制下の緊張した時代を伝える証言であるとともに、異国の人々と接することはどういうことかということについても示唆に富む作品である。韓国の人々と直に会うという経験は、ステレオタイプな韓国像を解体する作業である。それは、独裁政権が指導する発展途上の国という認識しかなかった韓国の姿について、もうひとつの理解の回路を用意することである。瀬能は、たくさんの韓国人と会った。そこには学生や教授はもちろん、文化人、そして国家情報院の人々まで含まれる。韓国人と酒を飲みながら直に話すことで、韓国人の価値観や物の考えを学び、自分の人生における思考の参照軸を作った。なぜ異国の人々と直に出会わなければならないかといえば、それは相手を「モンスター」にしないためである。新聞や書籍だけで得た異国の人々の姿は、容易に本質主義にはまり、彼らをモンスター化してしまう。そして、当の韓国人もまた日本人をモンスター化していた。瀬能は、場末の居酒屋で日本人は足の指が二本しかないと本気で思っている韓国人の男性と出会う。そんな人でも一緒に酒を飲めば、心を開いてくれる。異国での滞在は、文化や価値観が違っても、お互い同じ人間であるといった当然の認識を育ててくれる。こうした土壌のないところに、いかなる異文化理解もありえない。私もパンデミックのせいでなかなか韓国に行けてないが、早く韓国の現実をこの目で見たいと思っている。