677冊目『表象は感染する』(ダン・スペルベル 新曜社) | 図書礼賛!

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世界には多様な文化がある。これは誰しも認めることだろう。丁重にお辞儀をすることで対人関係を良好に保つ国もあれば、初対面でもスキンシップで交流する国もある。もちろん、個人の好き嫌いはあるだろうが、文化同士に優劣関係はないし、多様な文化が存在すること自体は素晴らしいことである。ところで、文化の多様性を認める一方で、それぞれの文化に共通の構造を見出すことはできないのだろうか。たとえば、どの文化でも人食というのはタブーなはずだ。人は人を食べない(動物の場合、これは決して自明ではない。たとえば、豚は豚を食べる)。これは慣習や伝統というよりも、人間に潜む生来的な何かに規定されているように思われる。このカニバリズムは、いわば、文化の下限にあるものである。

 

ここでの文化は、広い意味で「表象」とも言っていい。人はまず、心の中に抱いたイメージを、文字や記号や絵として表象する。それらの環境的表象が、心的表象を規定したりして、両者の相互作用によって、文化なるものが誕生し、特定の集団に受容される。ここで問題なのは、どうしてある文化がヘゲモニーを握ったり、ある文化が容易に衰退していったりするのかという、文化の自然淘汰の問題である。本書は、以上の主題に果敢に取り組む「文化解釈のアプローチ」の本なのだが、最初から最後まで総じて難解である。こういう難しい本について書くコツは、著者の厳密な用語の使用法や論証や整合性にこだわらずに、少しは理解できた部分を思考の参照点にしながら、自由に書いて見ることだ。

 

著者は、文化にもアプリオリな認識構造があると述べている。これは、子どもは周囲の会話を聴きながら言葉を覚えていくのではなく、もともと生来的に言語獲得装置が備わっているのだとするチョムスキーの発想と基本的には同じである。著者が、その認識構造として強調するのは類似である。他者の言葉の理解とは、その言葉自体を解釈しているのではなく、自分の脳の百科全書的知識を総動員して類似物をあてはめることによって成り立っている。「人間のコミュニケーションは、一般に、送り手の思考と受け手の思考との間に、単にある程度の類似性を達成するにすぎない」(140頁)。たしかに比喩(類似)は、単なる文飾ではなく、人間にとっての根源的な認識機能である(佐藤信夫)。しかし、この類似は、実際にあったように、ユダヤ人を「害虫」と呼び、そのように結びつけることで、現実そのものを歪める働きもする(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社メチエ選書、209頁)

 

もうひとつ、著者の文化解釈アプローチで興味深い点は、表象作用が、生物種としての生存競争に規定されていることである。いわば、文化のダーウィニズムである。「ある種の情報が成功を収め分布が広範囲に及び長続きするレベルに達する成算、ある文化の中で安定化する成算には、多くの要因が影響する。これらのあるものは心理学的要因であり、他のものは生態学的要因」である(236頁)。韓国映画『ブラザーフッド』(2004)では、朝鮮戦争における韓国軍の加害性を告発するシーンが随所に見られる。しかし朝鮮戦争が北朝鮮の侵略によって始まったことを思えば、韓国はむしろ被害国である。なぜ韓国映画のなかでこうした自国の加害表象が行なわれているかというと、現代のパブリック・ディプロマシーの時代において、自らを批判できる自省力がメタ・ソフト・パワーとして、「人びとの心を精神を勝ち取る」外交戦略として重要な位置を占めているからである(376冊目『文化と外交』中公新書)。文化表象に、生き残りを図る国家の生態学が貼り付いてることは無視してはいけないだろう。