650冊目『砧をうつ女』(李恢成 文藝春秋) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

李恢成の『砧をうつ女』は、第66回芥川賞受賞作(1971)である。初の外国籍作家による芥川賞受賞作として当時大きな注目を浴びたが、私は今回初めてこの小説を読んで、度肝を抜かれた。ある種の小説は批評を拒むことがある。ただその文章を丹念に読むことだけが意味を持つような小説がある。芥川龍之介もかつてこう書いたことがある。「文芸上の極北はーあるいは最も文芸的な文芸は僕らを静かにするだけである」(「文芸的な、余りに文芸的な」)。『砧をうつ女』を読んだときの衝撃は、まさにそのようなものだった。というわけで、私は、この本を前にしてただ黙っておく以外にないのだが、書評というのは何でも自由に書いていい寛容さはあっても、黙ることだけは許してくれない。しかたがないから、以下、駄文ながら私の読後感といったものを綴っていくことにしよう。この小説では、朝鮮人の母を持つ「ジョジョ」と言われる少年が、母の死去を契機に、亡き母の記憶とその追慕を綴っていくさまが描かれている。母ジャンスリ(張述伊)は、33歳のとき、第六子の出産時に重篤になり、そのまま帰らぬ人となった。病室で母の死に直面しながら、特に涙を流すわけでもなく、呆然とする他ないジョジョは、以降、母と過ごした日々の記憶に耽っていく。

 

母親は朝鮮半島の慶尚道出身である。慶州の農村に生まれたが、砧をうつような田舎暮らしはしたくないという理由から、両親の反対をよそに景気のいい宗主国日本へ行くことを決意する。三年経ったら戻ってくるということだったが、結局、ジャンスリは三年経っても、故郷に帰らず、そのまま日本に住み、炭鉱で知り合った男と結婚し、北海道の樺太へと移住する。ジャンスリの夫もどうやら朝鮮人で、小説のなかでそれほど前景に出ていないが、だいぶだらしない性格で、わがままで、夫婦喧嘩の際には平気で暴力を振るうような人物で、正直救いようがないのだが、でもどこか憎めないところがある。ジャンスリは、10年ぶりに故郷慶州へ帰還するが、少年ジョジョはこのときに同行しており、現地で目にした砧をうつ朝鮮女の姿が強く印象に残ったようだ。その後、ジャンスリは両親を説得して、一緒に樺太に住むことを提案し、ジャンスリの両親も樺太に住むことになったが、そんなジャンスリは33歳という若さで死んでしまった。娘に先立たれ、見知らぬ異国の地に放り出された祖父母の悲しみは、朝鮮語の感嘆詞アイゴという言葉に込められている。

 

注目したいのは、母ジャンスリの描写が少年の想像によってなされていることである。病室でジャンスリの死を看取った後、葬式の場面と続いて、生前のいきいきとしていた母の身振りが懐古の念をもって描かれる。そして、少年の妄想は、本来なら与り知らぬ、かつて朝鮮半島に住んでいた若かりし母の姿にまで辿りつく。これは、懐古の情を超えて、母の起源に迫ろうとするものだろう。樺太にまで来たジャンスリの母は、実は父の後妻で、ジャンスリとは実の母子関係にはないことが小説中盤で明らかになるのだが、追い求める起原のその先が空白だというのは、朝鮮文学にとって実は大きな意味をもっている。四方田犬彦によれば、最初の朝鮮人による近代文学は、明治学院大学に留学していた李光洙の「愛か」(1909)という作品であるらしいが、この朝鮮近代文学の起源とも言える作品が日本語によって書かれたというところに植民地の暗い痕跡を見ている(『われらが〈無意識〉なる韓国』511冊目)。他者(それも憎き宗主国)の言葉によってしか内面を語ることができない屈辱的な心性は、恐らく植民地を経験した人でなければ分からないだろう。李恢成もまた、当初朝鮮語で執筆しようと思っていたが、途中でそれを断念し、結局、日本語で小説を書いたという事情がある。李恢成にとって内面を語る母国語を獲得するというのは、ジャンスリの母が蒸発したように、空白を掴もうとするような行いだったのかもしれない。

 

少年ジョジョが辿りついたのは、慶州の田舎の娘がやるように、砧をうつ母ジャンスリの姿であった。想像のなかで紡ぎ出した母の姿は、朝鮮という場所とつながるものであった。李恢成が、母の起源へと遡及していくその筆致には、そのまま朝鮮人にとっての母国語を追い求めるという作業とパラレルな関係にある。しかし、この起原は空白である以上、それらの探索は、必ず裏切りとなって返ってくる。ここに李恢成と朝鮮文学の悲哀がある。砧とは、洗濯した衣服を柔らかくし、皺を伸ばすための棒状のようなもので、朝鮮半島では1970年あたりまで使われていたらしい。この小説は、全体的に語りの文脈のなかで母の記憶が辿られていくわけだが、砧をうつような独特なリズム感が小説全体を通底している。そういえば、祖母が死去した娘を語る場面は、朝鮮特有の風習である身勢打鈴(シンセタリヨン)という節をつけた語りによってなされている。「なんとも哀しい鎮魂歌だ。草笛が流れていくような寂しさだ。しかし、それでいて韻律には大河の流れのような格調、黄楊がなびくような優しさが、叩きつけてくる怒りや怨念と混っていて、どんな名手の楽譜にもない調べを紡ぎ出しているのだった。」(27頁)。起源は掴めないからこそ文学になるのかもしれない。『砧をうつ女』は、宗主国の内面侵略を起原とする朝鮮近代文学の宿痾を朝鮮式の語りによって包摂している。想像と語りがつながる箇所でひとつの物語が創造される境界に立ち会ったとき、私は、文学の発生を見る思いがした。