612冊目『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(一橋大学社会学部加藤圭木ゼミナール 大月書店) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、一橋大学社会学部の大学生が執筆した日韓関係入門の本である。本の内容自体は教科書や新書を開けば大抵書かれているものでしかないが、日韓関係を前に進めたいと本気で思っている若い世代がこうやって出てきたことは大変すばらしいことだと思う。違和感や疑問点を感じる部分はあるものの、帝国日本の植民地支配が悪だという本書の前提を私も全く共有する。帝国日本の植民地支配はまだ清算されていない。現在においても慰安婦問題や徴用工判決といった問題が浮上しており、日韓軋轢の原因となっている。本書は大枠としては、「日本人が正しい歴史認識を持てば、日韓関係は前進する」という内容である。たしかに、日本では植民地近代化論のように植民地支配を肯定するような言説が後を絶たない。そのことがヘイトスピーチやネトウヨなどを生み出す土壌にもなっている。しかしながら、私は、「正しい歴史認識」という上からの啓蒙はたいして効果を生まないように思う。以下、理由を示す。

 

日韓関係を考える上で、示唆的な例がある。沖縄である。沖縄戦は唯一の地上戦とも言われ、その悲惨さは猖獗を極めた。実は、太平洋戦争終盤における帝国日本の沖縄の位置づけは、いざとなったら領土放棄も仕方ないという捨て石だった。高木惣吉海軍少将が作成した「終戦に関する最初の包括的な調査報告書」では、北海道・本土・四国・九州を最後的領土限界とし、沖縄諸島は除外している。敗戦後、沖縄は米軍の占領下に置かれ、この状態が1972年の本土復帰まで続いた。沖縄と韓国を簡単に同列視する議論があまりにも大雑把すぎるのは承知しているが、帝国日本によって辛酸をなめさせられたという経験は共有している。さて、その沖縄だが、1972年に本土復帰し、本腰を入れて観光地としての売り込むことになるが、そのときに取られた戦略は、沖縄戦の悲惨なイメージは沖縄観光にマイナスになると考え、戦争の島というイメージを意図的に弱めようとしたことである(多田治『沖縄イメージを旅する』中公新書ラクエ)。

 

以降、沖縄といえば、悲惨な地上戦を経験した島というよりも、国内でありながらエキゾチック、時間がゆっくりと流れる癒しの島、亜熱帯のリゾート地というイメージが強まっていく。もちろん、こうした宣伝戦略による沖縄イメージは、沖縄の抱える重大な歴史認識に向き合っていないという批判もなりたつ。しかし、この批判は正しいだろうか。ここで話を韓国に戻す。韓国もまた帝国日本によって蹂躙された歴史をもつ。独立回復後も朝鮮総督府はそのままだったし(金泳三政権のときに解体)、いたるところに植民地支配の痕跡が残っている。作家の中上健次はソウルを執筆場所として選ぶなど、たびたび韓国に行っていたが、韓国国内に日本の神社が立ち並んでいる光景を見て、複雑な感情を抱く。「日本は一体この土地で何をやったのだ、・・・日本人は一体、何をこの民族に対してやったのだ。(略)戦後三十三年、文学は一体何をやってきたのだろう。私は思った、隣国に対する加害に作家らは口を閉ざしたままである」(1)

 

歴史へ向き合い方というのは、おそらく中上のこのような体験のことを言うのだろうと思う。沖縄もまた歩けば、いたるところに沖縄戦の痕跡があるし、米軍基地が厳然として存在することを素通りすることはできない。観光目的できた沖縄に降り立つことは、そのまま戦時の島としての沖縄を知ることにも繋がっている。コロナパンデミックのせいで、私はまだ韓国旅行をできずにいるが、韓国映画で疑似的に韓国を体験してきた。私は映画を観るとき、多様な価値観を学ぶというより、皆んな同じ人間なんだと感じることが多い。このとき、ステレオタイプによって築かれた他者の姿が解体し、対話すべき相手となって現れてくる。観光や映画は他者の本質化を防ぎ、他者は我々の投影でしかないことが分からせてくれる。こうした体験の土台のないところに、いかなる歴史認識をありえないと私は考える。なぜなら体験の土台がない歴史をめぐる議論は言葉の世界で閉じられたものにしかならないからだ。他者の顔が見えない歴史は、往々にして論争になり、歴史修正主義がはびこるきっかけにもなる。勿論、啓蒙に意味がないとは言わない。要は順番の問題である。体験から啓蒙へ。このベクトルで進んだときに日韓関係は少しずつマシになっていくものだと考える。


1 出典不明なので、『われらが〈無意識なる〉韓国』(四方田犬彦 作品社)から孫引きした。