563冊目『古典を読んでみましょう』(橋本治 ちくまプリマ―新書) | 図書礼賛!

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橋本治は、おそろしいほど著作がある。論じるテーマも多彩で、いわば、なんでも評論家である。私は、今年初めて、橋本治の本を読んだ(533冊目『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』)。過去記事にも書いたように、何の中身もない本だった。はっきり言って読むだけ時間の無駄だった。以来、私は橋本の本は二度と読まないことを誓ったのだが、今回、仕事の関係上、いたしかたなく、橋本の『古典を読んでみましょう』という本を読んだ。そして、案の定、この本もひどい本だった。

 

細かな過誤をあげれば切りがないが、なかでも飛び切りひどいものをいくつかあげておこう。橋本は、平仮名だらけで読みにくい平安和文が当時のひとはなぜ読めたのかという問いに対して、「そこに『知っている言葉』が並んでいたから、それをピックアップして意味をとりながら読むことができた」と言っている(50頁)。勿論、これは間違いである。文章の読みやすさは、まず形式の方から用意される。平仮名だらけの平安和文で意味が取れたのは、草書体を基本にした仮名が続け書きを可能にしたことで語句のまとまりが形式的に可視化されたからである(注1)。

 

また、橋本は『愚管抄』が漢字とカタカナで書かれた日本で初めての評論で、現代日本語の形をつくったと述べている(第十四章「日本語が変わるとき」)。いかにも『愚管抄』において初めて、カタカナ混じり漢字文が書かれたかのような言い草だが、すでに漢字とカナを用いた和漢混淆文は、『今昔物語集』や『発心集』等が存在している。評論という分野に限っても、藤原清輔『袋草紙』がすでに存在している。なぜこれらを無視するのか。ちょっと調べれば分かることなのに、橋本は何も調べずに適当に思いついたことをただ書いているだけなのである。

 

あと、文体について。橋本には以下のような、書き方が散見される。「平安時代に書かれたものは、その後のいろいろな日本語の文章のスタンダードにもなるようなものですから」(221頁)、「王朝の古典はそういう意味でも、日本文学のスタンダードであったりはするのです。」(232頁)。この幼稚な文体は一体何なのか。とても物書きを生業にしている人とは思えない。「いろいろな日本語」って、一体、どんな日本語のことを言ってるの? 「あったりはするのです」という書き方もひどい。校正は入らなかったのか。本当読んでてイライラする。

 

1 小松英雄『丁寧に読む古典』笠間書院 77-78頁