298冊目『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高 講談社現代新書) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。




 タモリといえば、日本人なら誰もが知っている国民的タレントである。タモリの本名は、森田一義。タモリは、この森田をひっくり返した言葉だが、名前の一義の方も、張作霖爆殺事件が起こったときの帝国日本の首相田中義一の「義一」をひっくり返したものだという。このひっくり返しただけという軽い感じが、いかにもタモリらしいな、と思った。タモリのトレードマークといえば、黒のサングラスだが、これも番組のディレクターが、タモリの顔に特徴がないから、という軽い理由でかけさせたものらしい(154頁)。行動に緻密な功利的理由など考えず、その場の雰囲気で適当に対応するタモリらしいエピソードである。ただ、私はこのサングラスはかなりタモリというタレントを世に売る戦略的なイメージとしては、その効果を最大に発揮したのではないかと思う。サングラスで目元を隠すことによって、得体の知れないカリスマ性が出る。何かを隠すということは、そこに意味深いものを感じさせる効果をもつ。そして、タモリはタレントとして独特のオーラを持つようになった。「いいとも」を見ていたとき、タモリがたまにサングラスを外すシーンが稀にある。小学生だった当時の私は、タモリのあまりに平凡な顔を見て、なにか興醒めするものがあった。 周知のことだが、タモリがまだテレビに出始めた頃は、サングラスはかけていなかった。右目に眼帯をつけていたこともある。そのときのタモリにはなにか独特のオーラがない。
 タモリといえば、フジテレビ「笑っていいとも」(12:00~)に触れないわけにはいかない。「いいとも」は、1982年から2014年まで、32年間も続いた。平日の月~金曜日まで五日間連続で生放送されるバラエティ番組である。当初は、「三か月だけならやる」と言って、同番組の司会を引き受けたタモリだが、なんと32年間も務めてしまった。
 私は、1985年生まれだから、私が生まれた時には、すでに「笑っていいとも」は放送されていた。平日の昼番組といえば、決まって「笑っていいとも」であったし、風邪などで学校を休んだときは、「いいとも」が見られる特権を充分に堪能した。夏休み、春休みなどの長期休暇は、起きたい時間におきて、「いいとも」を見て楽しんでから、遊びに行くなり、塾に行くなりしていた。日常生活に「いいとも」があった。
 私ぐらいの世代だと、タモリといえば、「いいとも」の黒サングラスのタモリがその全てだ。「いいとも」のタモリは、「タモさん」という愛称で親しまれ、その脱力系なキャラクターがもたらすのほほんとした雰囲気が場を和ませている。しかし、YouTubeなどで若かりしときのタモリを見ると、異様にハイテンションだし、下ネタは連発するし、アウトローさを全面に出している。「世にも奇妙な物語」でみられるような、紳士的な要素は一切ない。

 タモリが芸能界に入ったのは、遅い。29歳のときだ。一浪して早稲田大学に入学したが、サークル・モダンジャズ研究会で好き放題やった後、大学は除籍になっている。その後、故郷の福岡に戻ったタモリは、朝日生命に入社してサラリーマン生活を始めた。タモリは朝日生命の二歳年上の同僚女性と結婚している。26歳のときだ。だが、タモリは、結婚の翌年に大分県のボウリング場に転職。日本生命という一流企業からボウリング場の経営者へと転職するのは今思えばなかなか不可解だろうが、当時は、空前のボウリングブームの時代である。1952年に日本初の本格的ボウリング場が、東京・青山に東京ボウリングセンターとして建てられた。以降、ボウリング建設ラッシュが起こり、1970年では、全国で1381センターものボウリング場が設営されたという(97頁)。本書のタイトルは、『タモリと戦後ニッポン』だが、こうした戦後の文化的事象とタモリの軌跡をリンクさせることによって、タモリその人のみならず、戦後史についてもリアルに学ぶことができる。これを戦後史と呼ぶのは違和感があるかもしれない。しかし、歴史というのは、何も歴代首相の政策や外交の成果を羅列するだけではない。市井の人々がどのようなレジャーを楽しみ、どう過ごしていたのかも大事な歴史の一部分である。

 本書を一読して思ったのは、タモリはあまりにも運がいいことだ。タモリは福岡の地でジャズ・ピアニストの山下洋輔と知り合ってから、一気に人生が変わった。山下の知り合いがわざわざ金まで出して、タモリを東京に呼び寄せるし、親友・赤塚不二夫にいたっては、目白にある家賃17万もする自分のアパートにタモリを住まわせた。それだけじゃなく、タモリは赤塚のベンツを乗り回し、さらに小遣いさえももらっていた。また、タモリが「酒がない」といえば、翌日にはハイネケンのビールが何ダースも届けられた(140頁)。悠々自適な居候生活であった。
 いや、これを運がよいといっては、タモリに失礼だろう。それほどまでに愛されるキャラクターがタモリなのだ。全ての運はタモリの人柄が引き寄せていると言っても過言ではない。話は変わるが、本書で印象的だったのは、タモリが30歳を前にして、東京への上京志向がありながらも、まだ福岡でくすぶっていたときの心境だ。その時にタモリが思っていたことは、30歳になってから何をするかということだった。30歳までは好き勝手に生きていればいいが、30歳からは一生やる仕事を見つけないといけない。タモリにとって、それはお笑いだった。「いいとも」で醸し出されるタモリからは、そのような上昇志向とは無縁なようだが、表には出さない野望があったのである。実は、タモリの私の境遇はよく似ている。タモリは、早稲田大学の進学のために上京した後、地元福岡に戻り、七年を経た後、再度東京に進出した。そして、私も奇しくも同じ早稲田(ただし、大学院)に進学するために初上京し、その後、一旦沖縄に帰って、四年を経た後、再び上京した。親からは「なんでまた東京に行くんだ」と呆れられ、友人からは「お前のやることの意味がわからない」と言われもした。しかし、当時の私にとって、東京は再び行かねばならないところだった。上京までにかなりの苦労をしたが、この決断自体は間違ってなかったと思っている。タモリの福岡・大分で過ごした時間を本書では「空白の七年間」と呼んでいる。そして、著者は、立花隆の言葉、「その『船出』を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めること」(107頁)を引いて、タモリはこの空白期間でも夢を諦めていなかったと述べる。再び私の話をすれば、私は沖縄での四年に及ぶ空白時代から学ぶことがたくさんあった。たくさん読書をし、授業をし、良い生徒に巡り合えた。そして、このときの蓄積を礎にもっともっと前に進みたい。