296冊目『ジェイクをさがして』(チャイナ・ミエヴィル 早川文庫SF) | 図書礼賛!

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 チャイナ・ミエヴィルの小説は、これまで二冊読んだことがある。評価の高かった『都市と都市』、そして『言語都市』だ。『都市と都市』は、まあまあ面白かった記憶があるが、ほとんど内容は忘れてしまった。たしか旧ブログにレビューを書いたはずだが、それも消してしまったので、今となっては読後の痕跡を探ることはできない。もうひとつの『言語都市』にいたっては、4年前ぐらいに読んだ気がするが、はっきりつまらなかったと記憶している。たしか上下二段組で四〇〇頁ぐらいあったはずだ。当時は、どんな本でも最後まで読了するというのが私の読書方針だったから最後まで読んでしまった、今は、有限の人生において退屈な本はとっとと見切りをつけるという方針に転化したので、おそらく今読んだら10頁ぐらいで投げ出しているはずである。
『ジェイクをさがして』は短編集である。ローカス賞受賞作の「鏡」はそれなりに面白かった。日常に溢れている鏡の世界から、人間の形をしたヴァンパイアが飛び出してきて、人々を殺傷し、大都市ロンドンを一気に後輩させるというグロテスクものだ。鏡の持つ不思議な魔力を見事にホラーSFとして結実させたと完成度の高い作品といえる。「鏡に映った像が実体化したものを見て、なにかがちがっているが、それがいったいなんなのか、どこが異常なのかがわからない」(384頁)という文言はどこか示唆的だ。
 しかし、今回、私が一番感銘を覚えた作品は、「ある医学百科事典の一項目」という短編だ。題目の陳腐さもさることながら、体裁上はバスカード病と呼ばれる特殊な病の発生源国、最初の患者、症状、治療法が事典風の歴史的叙述スタイルを採用している。
 ある単語をつぶやくと脳内に蠕虫が発生する。バスカード病に最初に侵された患者ヤンシャは、本の間にはさまっていた栞に二つの単語があるのを認める。そのうちの一つの単語を発するや、激しい頭痛に冒される。蠕虫が発生したのだ。この蠕虫は脳内を移動可能で患者の脳細胞に無数のトンネルをつくる。蠕虫が食い荒らした結果だ。その結果、脳内組織が破壊され、知能が著しく低下する。カスタード病に冒された患者は、何度もあの単語を連発する狂乱状態に陥る。聴衆がうっかり、その単語を口にしてしまうものなら、今度はその発話者の脳内に蠕虫が発生する。こうやって蠕虫は無限拡大していく。後々、この蠕虫の正体は、人間の言語活動によって起こされる脳内の微細な化学反応であることが明らかになる。「微細な化学反応が神経を寄生虫に変えるのである。うろつき回る細長い脳組織は、脳髄に穴を穿ち、新たに独立した体を利用して神経伝達経路を変化させることで、周期的に宿主をコントロールする」(163頁)。とはいえ、科学的に蠕虫の正体が解明されようと(ヤンシャを被験者とした論文にその蠕虫語があるため、論文が読まれる度に大量感染の原因だったというのは何とも皮肉だ)、患者からしてみれば、従来通り、脳内を得体の知れない虫が食い荒らしている感覚に違いはない。さて、この蠕虫への対処であるが、一説によると、ヤンシャの本に挟まっていた栞にあった、もう一つ単語ではないかと言われている。その単語を口にすることで、脳内のシナプス形成に変化が与えられ、蠕虫を捕食する狩人が現れるのではないか、というわけだ。しかし、このもうひとつの単語は一体何なのか全く分からないのである。
 注釈を入れても、わずか9ページしかない、この短編はこうやって閉じられる。事実に文学性をもたせるこの手法は、「事実は小説よりも奇なり」といった通俗以上のものを含んでいる。ある単語を見るだけでは何も問題はないのに、それを発話した途端、蠕虫が発生する。ここには明確に文字と音声の分離がある。文字の持つ神秘的な不思議については、漱石『門』において、近江の「おう」の字が書けないと困惑する宗助のセリフ「紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る」といった場面が思い浮かぶし、文字の霊性を扱った中島敦の「文字禍」もその主題のひとつだろう。『文字禍』には、次のような叙述がある。「文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか」。この問題意識をミエヴィルのこの短編に接続すると、声に霊はあるのだろうか、ということになろう。この問題は正直、私の手に余るが、新たに生じた関心としてここに留めておきたい。