「ゴースト イン ザ シェル」実写化という僥倖と合わせて、原作を見直してみました。
はじめて、攻殻を知ったのは、16歳のとき、レンタルビデオで。
あれから20年経っている驚きと、あのときの自分と、どう違って見えるかという気持ちで、2.0を、ブラッシュアップされたゴースト イン ザ シェルに、ダイブしてみました。
オープニング。
義体が創造されていく過程の美しさ。
謡Ⅰの音楽が儀式めいて、神聖な気持ちになります。
生命のメカニズム、無数の細胞が織りなす宇宙。
骨格、内臓、神経、血管、筋肉から、それらを覆う皮膚。
人が人であるために、必要な部品が、素晴らしい計算のもとに、組み合わさって、構築されている。
脳化学者の村上和雄さんは、人間のDNAを、サムシンググレートとと呼んで、こんな美しいものは神が書いたものとしか、思えないと、おっしゃっていました。
完全なる肉体の造形美を、ここまで映像を通して、表現されて、改めて感動しました。
圧巻です。
実写版では、スカーレット演ずるキリアス少佐に、
「あなたは美しい」
と言葉が与えられますが、解釈の違いこそあれ、"完成美"でした。
電脳化社会、全身義体、ゴーストハック、未来の犯罪•••
と、難しい要素が多く、物語を複雑にとらえていましたが、実は難しいものではなく、
苦悩を抱えた、草薙素子という孤独な女性と、人形使いという存在が出会った、シンプルなものでした。
自立した強い女性、軍人という職業から、最初感じ取れなかったのですが、人間的弱さと、繊細さを十分に持った女性だったのだと、気づきました。
全身義体という、肉体レベルで考えれば、ほとんど人間ではない。
前例がなく、比較対象がない以上、孤独です。
自分は何者なのか、それをかろうじて、繋ぎ止めるものが、攻殻世界観での、ゴーストなのでしょう。
そのゴーストある素子でも、今に限界を感じ、行き詰まっています。
義体化した者にとって、組織の提供する保証なしに、自らの生命維持=義体の修復、管理、維持
、はできません。
組織依存なしに生きられない呪縛と、生殺与奪さえできる医師への不信も、
精神的に無視できない問題です。
「退職は認められてる。記憶の一部と義体を返却すれば」
つまり脳しか残らない。
「人間扱いはされてる」
バトーの言葉も、空しく響きます。
素子は、自立した女性であったけれど、けして自由ではなかったのだと、今になって気づきました。
バトーは、様々な不条理や規制があっても、それを現実として、受け止められる。納得できる。
しかし、その先をみてしまった素子を、バトーは理解できない。
側にいながら、二人の距離は遠いですね。
バトーの慟哭が、粗暴で悲痛でありながら、愛情があって良いです。
20年以上前に、草薙素子というヒロインを、創り上げた押井守監督を、リスペクトします。
自我に目覚め、今以上の変化を求め、街を彷徨う素子は、やはり特別な女性です。
現代でも、本当の自分探しというものはありますが、それには当てはまらないと、思います。
終盤の戦闘シーン、救援を求め、事実上見捨てられた素子は、やはり孤独でした。
光学迷彩をまとい、単身立ち向かう素子は、過去の私には勇敢にみえたのですが、今では悲しく映りました。
なにがなんでも生き延びたい意思や、その先に希望が待っている訳でもない。
絶望して戦っていた訳ではないでしょうが、それ以外にない、という姿勢は、映画のクライマックスにして、非常にドライに感じました。
「ここには少佐と呼ばれた女も、人形使いというプログラムも、存在しないわ」
「さて、どこへ行こうかしら。ネットは広大だわ」
素子にひとところの居場所など、はじめからなく、言葉と裏腹に、行くところなどないように、聴こえました。
義体=殻から、完全に離脱し、自由を得たからこそ、また新しい孤独がスタートしたように、思えました。
映画全体に、空虚感が常に漂っていました。
大人の映画ですね。
人間という生命の先へ、進化していってしまったもの、という壮大なテーマを、改めて面白く解釈して、見ました。
一見科学的ですが、大きく宗教観を占めて、機械化が進んでも、なお人間の精神に行き着く、この世界を表現されたこと、私には深みを感じるものでありました。
押井守監督の伝えたかったことを、ほとんど掴めませんでしたが、久しぶりに楽しむことができました。
充実しました。