どちらかではなく善悪両端で | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

善悪があったなら
そりゃあ善人である方が徳が溜まるし、幸せになるろうし、そんな行いをしていくがやろうけんど


悪を持たれんがかというたら
別に持つだけなら持っても害はない
それを刃に変えて使いさえせんかったら。
悪もただ悪であるだけなら一人でおるだけやけん人に迷惑はかからんろうけど、それをお金や権力や圧力や脅しというものに形を変えて使うけん人に有害になるだけやけんね。
何もせんかったら別に在ろうが無かろうが同じ事よ。
幽霊もそうやろう。


どう考えても、悪をのけるとか、悪を善に変えるとかゆう神業は無理やね。
幽霊も、高い力があったら浄化したり成仏させたりできるかというたら、まったくそうでもない。


地獄に落とす霊も出てくる。
救えるばかりの霊はおらんという事よ。
宗教では必ず救えるというけど、霊そのものが低いと救えるもなにもないけんね。
悟せるレベルじゃないということよ。
救うには、それなりの濃度が必要やろう
悪に傾くにはその濃度の善意があったということ。
悪も救えるものと、地獄に落とすものの二つに別れる。
初めから悪におったものは直しようがない
またこんなものは、生まれ変わりを何千回も繰り返し、善を知っていく過程がいるがやろう。
救えるものは善を知り打ち砕かれたモノだけや。


 
善人を目指すなら仙人にでもなれそうやけど
善悪を兼ね備えながら両方をいつでも扱える気質が本当はいるがやろうね。


ただの悪でも
ただの善でも、いかず
善悪を持っておらんと進まん時代でもあるかもね
今までならどっちかに偏ったことで動きよった時代も、次は両方をバランスよくもたんと進化せん時折ながやろう。


いかに悪を減退や消滅や消失をささずにそのままを良心で扱えるか。


ボコボコにしても殺さないように留めれるかが、鍵ながやろうね。


そんなことを思いよった。