批判受ける時ってね | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

今は真理を述べたブログが多いわえ




やけん皆同じ事結構言いよる



でも、批判される人と、スルーされる人がおるがよね



誰も文章なんぞ見慣れてしもうたもんは読んでないで。



結局その文章から言葉にはない思いやりや、愛情や、筋であったり、その人自身であったり、その文の目的が最終的に何処に向いているか


ということを瞬時に脳ではなくて勘で感じとるがよね



真理を説く者はねえ
自分には真理自体がいらんがよ
知っておるがやけんブログする必要もないろ。


結局人のため、何かの為ながよね
目的すら、大事なモノの為ながよ
自分がある事すら、その大事なモノの為であるがよね

自分の為に自分は必要ないけんね
生まれてこんと霊でおっても目的は果たせるけん



屁理屈を言うもんは、それも自分の為ですというわ

それをわざわざ人に言わんでかまんろ、心で思うたや。って思うがやけど



こうやって、屁理屈をいうもんに、人は批判をぶつける反応をするがよの




どっかで、思うても


止めちゃらないかん。




真理は究極、この世は自分しかいないし、全ては自分の為ですと言うことが、実際真実やったとしても、人の気持ちを害するなら真理やけんというても止めないかんわえ。

人の今の気持ちや状態もあるがやけん、言うて相手が悟るか悟らんかわからんことに、究極やけんという理由で一言言わんでええがよ

ある意味自我の押し付けに入れ替わりするで。








言い放つことって簡単よ
でも、そこまで踏み込まんでもというところの線引きっているがよ


そうせんと、批判は嫌味になって最後攻撃になるろ



そこまで人にするもんやないわ



嫌なら読まんかったらええことよ



それも礼儀のうちに入るろう



直接関わらんでも。




情報が簡単に溢れる時代やけん


あるもんになんでもかんでも触りよったら、常識もクソもないで。



結局自分からしたら嫌なブログも、本人は楽しみの一つにして書きよる所もあるがやけん、根も葉もないほど踏み込んで、ブログをやることすら、嫌になるほど物を言われんがよ。




まあ、うち、そんなことされたことないけどよ
言う方も言われる方も最低の一線は残さないかんろって思うね





何かがあったわけやないけど、ふと思うてね。





一番は嫌なもん見ても直ぐ忘れる程適当に読んでおくのがええがよ
だって心に止まったらなんでか覚えておるもの。



大概覚えておらんといかんことって仕事以外にはないがよ
こないだ筋トレの話しをしたろうと言われたけど、まったくそんな話をした覚えはない!と本気で思うた今日は、適当に返答したことにこれでええがやと確信。

適当に返答しよったら相手が勘がええと読まれるけんね(笑)やけんクソ真面目におったら、頭痛がしだしたがよ(´・ω・`)
日常の8割が適当やに覚えちょるわけないやん


こんな感じでええがって、本気にならんでも。




やられん人もおるよ
適当に話したとわかったら、じゃあ私との会話は適当にあしらわれる会話をしよるがやって思う人もおるがやけん
適当やなくて気軽やけん覚えてもないわという事やけど、人は人の生きてきた価値観やいろんな経験があるけんね。
解釈の仕方がそれぞれ違うけん、それを責める事でも嫌がる必要もないしね。







まあけど、勘がええなら、触ったら危ないブログには直接は触らんわ


たまにあるがよね


妙にその文が普通なのに、魔術方式になっていたり、または御経になっていたりとね


御経はええけどねー







あ、今回の内容
わざと批判染みた事をわかって的をついて書いておる個人の意向は例外であるよ

ホラ、ケツの穴やけん。