神社に行くなら願いは叶う方向にもっていけ | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

神様をね、言霊で縛ったのが、憲法という法ながよ



その法であってくれよる、神様を祭りよるのが神社なが。




そこの神社に拝みにいける心意気はよお
そこの神様がなってくれている法を守る心の力が常日頃からあるということながよ




神様とはこういうたら

「義」ということが、わかるろう。



法になるぐらいの神々は、威厳があるで



私はそっち側にはおれんけどね、性質が違うけん。



やけん神様って真っ黒よ




神社の神様は必ず人道として存在する



やけど、神社で願い事を言うのは、金がなかったり、健康がなかったり、家がなかったら、人道も法律も何も守れんろう?


だって、しんどいやんかー
どっかが健全じゃないって



やけん退けてくれるがよ、お願い事したら



その代わり、退けたがやけん、人の道で生きなさいよっていう事を言われる。



それが条件やし


条件どころか、生きるとは当たり前にやらないかんことよと
それは神社におる神様を裏切るから、とかやなくて
自分が不幸になるから、人の道を守らんといきませんよと。



不幸になることはしたらいかん



それは、外の金がないとか健康がないとかそういういずれ死んだら無くなるモノについて言いよる判断ではなくてね




もっというと、感じ方について言いよる



自分は、とかいう卑下
やっぱりね、っていう諦め
どうせ、っていうスネ
こうされた!っていう被害


これらって、きちんと生きたら、割りきりとかできるし、状況読めたら起こったことに自分の中まで響かすことはせんし、感情混入までいかずに理性で解決できることながよね



それをできる術をつけもせんと、嘆くだけをするなよというがよ




なかなか、解決したくても、その技術がつくまでにはいろんな辛抱や我慢をせないかんし、イライラするけどよ



それでも、何もせんまんま不幸のヒロインで終わるような、自分にとって可愛そうな事をするなと言われるがよね


そもそもそれが不幸よね。



歩みを止めるのは不幸に花が咲く






やけんね、神社で願う事はかまんと思うがよ


やけど、欲や不安を言うがやなくて、本当に困った事を言わんといかん


また本当に願う事をそのまんま、言わんといかん
でも大概の人間は調子よかったら拝まんけんね。




神様ってもんを信頼するなら、適当にやや困った事より、本当に人生狂わすほどの自分の力ではどうにもならんことを、言うことやね。



だってよお

人のお願い事ってよお


あんた、それ自分の努力で解決できるやんって思う事ばっかりでよお



本気の問題ってどれぼとの人がきちんとが本当の問題やと認識して言えよる?




その本当の問題、に対して神は動くものながよ。





子供が難病にかかって、何が問題かっていうたら、難病にかかったから、これから先のお金が問題、であるにも関わらず


この子の病気を治して下さいと、神社に言うろう



でも大概の人の悩みはそんなことより、お金の問題って感じが先に不安としてあるがよ



やけん金はなんとか回ってくるわえ

やのに、病気は治らんと。



それに本当にこの子を助けたい!って思うたら、その次点で名医におうて、病気が治る方向に行く。
そんなことを神社までいって神様に拝まんでも、守護霊も守護神も常に見よる。



神社ってね
とくに高い神様のおる神社



そこはね、本気でモノ言いに行くところながよ


切羽詰まって、欲も抑えて、身も引いて、やるだけやって、それでももう無理やと言うときにいかんと、本当の神は出てこんぜ。




私は楽観的な神にあいたいわけじゃない。




本気の事にはきちんと現実も神も動くけんね。




ま、そこまでなって行けとは言わん



やけど、行くならチャンポランで言うても言わんでもかまんようなことは言うな。


日頃努力をしよることを成熟させるなら言いに行け。




例えば、恋人が欲しくて、お洒落や行動や内面を日頃から努力しよるというなら、神社でそれをお願いしたらいい

努力に見あった分の人に会う


神側からしたら、会わせ、れる。



自分のやりよらんことを言うてもいかん


またやり出そうとするなら、宣言したらいい
後押ししてやるから。





何事もね、意志をもってこないかん。



もうやりきって、ダメや!どうにもならん!と本当に真底判断したなら



もうダメです!というて来たらええ



これも意志やいか?



意志とは、そんじょそこらの気持ちで入るもんじゃない。




日々の努力あってこそ、やけんね。




それに応えちゃる



ダメならダメで、うなだれてグジグジして御参りにこんと、真剣に考えてスッパリ結果を出してケリを付けてから来るなら来い




中途半端にくるけん、叶わん






人間の頭でね
考えて叶ってほしい願いなんぞね
たかがしれちょるし、間違いが多い


幸せである、とする部分の間違いがね。




無理なら無理で、どうするか聞きにきたらええし


自分のやりたいことを意地で続かせろうとして、御願いします!っていうのは、エゴやけん

そんなことをする必要はないがよ。



自分に器や能力がないけん潰れよるがかもしれんし、人間関係が下手やけんトラブルが多いがかもしれんし


自分のこうしてほしい!っていう我をぶつけられても、見えちょる視野が違うがやけん叶うわけはないがよ。




続けてもここで終わらしても、どのみち置いていたら終わるものに、力はかさんし。





やけん言うことをきちんと、考えて行ったら意味在るで。




それって自分の思いを知ることよね






で、結局

人道を守り生きる為の姿勢の考え方なら、この言いよることは難しくないと思うがよ



もっというと

自分が幸せになる為をアホになって願う正直さながね



人が曲がってなかったら、その内容は人道にそうちょると思うがよ



やけん、真剣に拝めって、集中して目をつぶる事ではなくて


真剣に自分の事を考えて真剣に先を見て、いいなさいよってことよ









まあ

神社があるけんこう言うけど

あんまり神社がある意味がうちにはわからん。









なんでも良いとする感謝信仰
病気や癌でさえも感謝する信仰は

感謝の前提に深い反省が存在することを忘れるな。


こんな事をしてきた私にさえ、救われる現象が起こっている、とした時の、有り難いとする現象が癌であったり、経済難であったり、人間関係難であったりすけど


そんなもん、感謝できるわけないろう?
苦しみよるのに。


明るく行こうって、なぜそうなるかしらんと明るく生けれんでしょう。


明るく行くためにそれを知るとは、反省が起きる過程を踏むということなのよ。



感謝とは、ただでできるなら安いものなのよ。



現状の続く当たり前に感謝できたら、病気が起こってもそれでも生かされる事に感謝ができるけど


なんでもかんでも感謝感謝、できんのが普通やし


なんでもかんでも愛して許す事ができんのが、普通よお。



それを超えるとは、感覚が人間やなくなるがよ。



そんなことして生きても味気ないけん、きちんと人の道を踏まさんといかんと思うぜ

答えを言うのはしよいけどよ。




起きることを受け止めるとは、それが起きた原因を受け止めての事で、それに感謝して判断を誤れ、目の前のモノをただ受け入れよっていうのとは違うけんね



自分で立たんといかんわね。