退職日の翌日、私は新しい職場へ向かった。


面接で一度訪れていたこともあり、それほど緊張はしていなかった。
むしろ少し楽しみだった。


まず嬉しかったのは、自分専用のデスクが与えられたことだ。


ビルメンテナンス時代は、自分のデスクというものがなかった。
与えられたのは小さな棚ひとつ。
資料も私物も、その限られたスペースへ押し込まなければならなかった。


だから、広々としたデスクを見た瞬間、
「やっぱり営業は違うな」と思った。


文具も置ける。
資料も広げられる。
なんならコーヒーカップも置ける。
人は環境が変わると、こんなにもテンションが上がるものなのかと感心した。

しかし、その喜びは数秒後に消えた。

「パソコンがない……」


思わず二度見した。

いや、もしかするとまだ配られていないだけかもしれない。
そう思い周囲を見渡した。

ない。
ない。
本当にない。

営業マンの机にパソコンが存在しないのである。

見つけたのは一部の上司の机と、共有パソコンが数台だけだった。

新人初日から
「パソコンはないんですか?」
と聞くのもどうかと思い、ひとまず黙った。

そのうち説明があるだろう。
今日は座学だろうし。
そう思っていた。

これも完全なる思い込みだった。

まさかの初日から同行訪問だったのである。

結局、夕方まで会社へ戻ることはなかった。

そして帰社後。
営業日報を書いて提出してくださいと言われた。

そう。
手書きである。

ここで私の弱点が発動した。
実は長年パソコン中心の仕事をしてきたせいか、多少の書痙があった。
緊張すると手に力が入り過ぎる。
字を書く速度が極端に落ちる。
そして元々上手ではない字が、さらに解読不能になる。

できれば避けたかった。
しかしパソコンがない。
選択肢もない。
私は覚悟を決めた。

郷に入れば郷に従え

、である。


営業の世界では、「記憶より記録」である。
つまり、
メモ。メモ。メモ。である。

新人であろうが、お客様は待ってくれない。
初日から専門用語のラッシュだった。

昔、「分からないことはお客様から学べ」と教わったことがあった。
そこで素直に聞いてみた。
すると返ってきた言葉は、

「自分で調べろ」だった。

実にシンプルで力強い。

持っている武器はメモ帳と会社支給のガラケーのみ。

購入履歴を確認したければ帰社後に共有パソコンを使うしかない。

情報共有も独特だった。
「情報共有が大事」という言葉はよく聞く。
だが、その会社の情報共有は紙だった。

そう。回覧板である。

資料を回す。読む。印鑑を押す。次へ回す。

完全に昭和スタイルだった。
必要な資料はコピーして保管する。
気分は完全にタイムスリップである。

「令和だよな?」

と何度も自問した。

入社して数日後。
さすがに業務効率が気になり、上司へ相談した。
するとパソコンを一台使わせてもらえることになった。
その瞬間、文明開化が訪れた。
まず営業日報をパソコン入力へ変更した。
たったそれだけなのに感動した。

しかし問題はまだ残っていた。


外出先で使える武器がないのである。

得意のExcelやAccessで顧客管理ツールを作ることも考えた。
だが、会社にあるパソコンでしか使えない。
外へ出れば何も見られない。

どうしたものか。

そんな時だった。ふと頭に浮かんだ。

「ないなら作ればいいじゃないか」である。

思えば昔からそうだった。
不便だと思ったら改善する。
ないなら作る。
それが私の仕事のやり方だった。

そこで以前から興味を持っていたスマホアプリ開発に挑戦してみようと思った。
とはいえ、アプリなど作ったことはない。
知識も経験もゼロ。
あるのは好奇心だけだった。私は週末に書店へ立ち寄り、一冊の本を購入した。


こうして後の営業支援アプリへとつながる、長い長いアプリ開発の旅が始まったのである。