どうも、こんにちは。

 

 

キタニタツヤさんの『私が明日死ぬなら』という曲について、立ち止まりながらざっくばらんに考えたいと思う。

 

 

キタニタツヤさんのライブに行くからとりあえず曲を聴こう、から出会った曲である。

最初の印象は「まぁこうゆうテーマの曲書くよな」

「こうゆう曲書くよな」の意味としては、死を大題にした曲はちょこちょこ露出されて受け入れられている中で、分類するなら暗めの曲を作るアーティストなら1回は考えるよな、である。

 

 

同じ色味のする曲の中で、個人的パイオニアは、

カンザキイオリさんの『命に嫌われている』やピコンさんの『死ぬにはいい日だった』が挙げられる。

この曲たちは当時の私にとって非常に激鬱だったのだ。気軽に聞けるもんじゃなかった。一種、人格を変えうる危険を孕んだ曲で、その異端さに引き込まれた。

具体的に他とはここが違う、とは今表せられない。ただ、当時「死」という概念は、悲しさや寂しさを想起させるものであり、オブラートに包んで歌うのがセオリーだった気がする。実際、こういう過激的な曲を地上波では一切見なかったし、世間が触れやすいところには置いてなかった。

この曲たちは異質だった。キャッチ―な感じはない、ロックでイカしたメロで売りにきていない。

「受け」を狙っているようには見えなかったのだ。

 

この衝撃がいつの間にか私の中で崇高さと神聖さを生み出し、その結果が「まぁこうゆう曲書くよな」である。

 

つまり、何も知らないビギナー私は、自身の色眼鏡を通して、「どうせそうゆうことを取り上げた曲が出れば、どうしたって人は寄り付く。みんな、眠れなかった夜を歌うたがるし、迎えたくない朝を嘆く。そうすれば共感者が群がる。これもその類だろう」片隅にそう思っていたのである。

 

…なんとまぁ失礼で驕り高ぶっていること!お前は何様なんだ!

 

人には文脈があるし、思うことは止められない。思想は自由なんでね。勘弁していただきたいですが。

「二番煎じ」「フリーライダー」…なんて印象をひっそり持っていた訳でございます。

 

 

 

 

ところがどっこい。

 

 

なんだこの曲は。なんだこの歌詞は。

 

『例えばいつか にわか雨の寂しさがあなたを襲っても 

 大丈夫かな こんな歌でも傘にしてどうにかやり過ごすんだよ』

 

 

刺さって抜けないのは、

『こんな歌でも傘にして』『どうにかやり過ごすんだよ』

 

 

分かる。歌を鎧にして自分を守ってきたんだ。歌を殻にして心を守ってきたんだ。

悲しい時はより一層酷く悲しい曲で身を覆いつくしたいし、怒れる時は世の中はなんて不条理なんだと嘆いてくれなきゃ心が痛いと感じることをやめていた。

「傘で寂しさ(雨)を凌ぐ」この歌詞が幼い私と重なったのだ。その感覚があなたにも分かるのか、と。

 

 

『どうにかやり過ごすんだよ』

どうしてこの言葉が選べるんだ。

「何かする」において、0が「何もしない」だとして、どうして「1でいいよ」って言えるのだろう。

そもそも、1が「どうにかやり過ごす」であることにハッとさせられた。なぜなら、私の中の目盛り1は「何か1つは学んで持って帰る」であったからだ。

……いいんだ、何も得なくても。やり過ごせばいいんだ。「傘」を持っているのに「やり過ごす」だけでいいんだ。

さすがに、曲を聴いて歌詞を見て目耳を疑った。まして、高いレベルで闘ってきた貴方がこれを言うのか、言えるのか。

 

 

 

完全撤回。反省。心底、口外していなくて良かったと思ったね。厚顔無恥そのものになるところだった。

この曲に対するフィルターや色、聴き方、聞こえ方を変えたし、変わった。

今は曲を聴きこみ、他の歌詞に心を浸らせるばかりである。立ち止まるほど曲が良くなっていく、楽しい。

今回は名付けて「出会い編」とでも言いましょうか。また別の機会にもっと深堀りしたいと思う。

その時はどうぞお付き合い、自分。

 

 

それでは、また。