なかなか一筋縄でいかない可愛い教え子の、心の成長が大きく感じられた。
「話がストレートに伝わりやすくなった」
信夫コーチの1年以上に渡る“忍耐”が、ようやく報われるときがやってきた。
もがき苦しみながらも決して諦めなかった。
なかなか目に見える成果があらわれず、地道な努力をただひたすら重ねた。
そんな浅田選手がようやく暗闇から抜け出し、私たちの前に笑顔を見せてくれたとき、
多くの人々が彼女に感動し、喜び、そして涙した。
そして彼女の努力やどんな苦境にも前向きに取り組む真摯な姿勢を称賛した。
言うまでもなく私もその中の一人である。
しかし、彼女と同じくらい、いや、おそらくそれ以上に
その期間を 『耐え続けてきた』 人物が存在する。
それは浅田選手のメインコーチである、佐藤信夫氏だ。
昨シーズン、あの状況で3アクセルに挑み続けるのはどう考えても得策ではなかった。
回避するのが『常識』で、挑戦するのはとんでもなく『無謀』である。
何でも挑戦すればいいってわけじゃない、頑固にも程がある。
世間では多くの人々がそう意見した。
しかし彼女には、どうしてもそうしなければならない理由があった。
浅田選手には、一般的な考え方は通用しなかった。
佐藤コーチは試合ごとに、その大技を回避するよう話をしてきた。
それはコーチの指示ではなく、『説得』 に近い提案である。
最終的には必ず、「後は自分で決めなさい」 と彼女に選択の余地を与えた。
そしてその度、彼女は挑戦を選択し続けた。
彼女の3アクセルの選択を支持する人たちの中には
それを 『果敢にも挑戦しつ続ける』 と表現する方々がいる。
しかし、それは間違っているのではないか。
少なくとも先シーズンのあの選択は決して
『勇気』 や 『強気』 からきたものではない。
信夫コーチが 『選択の余地』 を与えてくれたことによって、浅田選手は救われてきた。
3アクセルへの挑戦は、彼女のモチベーションを支えるアイテムだ。
言うなれば、それは精神安定剤のようなものだった。
浅田選手だってわかってはいるのだ。
頑固ではあるが、相反して非常に素直な心の持ち主でもある。
信夫コーチの言っていることは頭では理解できる。
しかし、感情がついてこないのだ。
その状態で試合に臨めば総崩れになってしまうことは自分でもわかっていた。
だからこそ自分の選択は正しいのだと信じて頑なに3アクセルを取り入れる必要があったし、
信夫コーチも彼女の心の部分を危惧していたからこそ、最後の選択を彼女に託してきた。
浅田真央という選手が壊れてしまうことがないよう、そのことを十分念頭に入れて指導してきたのだ。
彼はただ待っていた。
教え子が精神安定剤を必要としなくなることを。
そのときがやってきたら、今度こそじっくりと説き伏せよう、不安定な技は回避するべきだと。
なかなかその機会は訪れなかった。
調子が上がった時期もあったが、まだ不安定だった。
アクセルジャンプの出来は、そっくりそのまま心の安定度に影響した。
先週のNHK杯。
公式練習の後で、信夫コーチはいつものようにダブルを提案をした。
浅田選手の決断はこれまでと変わらないものだったが、
いつもに比べると、そこには少し変化が見られた。
『もし失敗しても他の部分で取りこぼしの無いように滑ります』
“とにかく3アクセルを挑戦したい”
自身の気持ちだけを優先してきた彼女が、
少しずつ信夫コーチの方針に考えを寄せ始めたよう見受けられるような返答だった。
無茶をして挑戦するからには、他に影響を与えない。
自分の意見を通すには、信夫先生に与えられた課題はきっちりと成果を出さなくてはいけない。
結果として予想通り大技は失敗に終わったが、彼女は自分の言葉をきっちりと守り通した。
彼女の心は強くなった。
3アクセルは、もはや彼女のお守り役ではない。
得点源となるひとつの技へとその存在を変えた。
今こそ、少し離れた場所から己の判断を見詰め直すチャンスのときだ。
その夜、信夫コーチは初めて “提案ではない” 言葉を口にした。
彼が今まで何度も口にしかけ、それでもまだ時期ではないとじっと我慢し続けていた思いを、
浅田選手の前で語った。
3アクセルの回避の本当の意味を、今の彼女ならわかってくれるかもしれない。
信夫コーチの言葉が、浅田選手の心に響いた。
これまでひたすらじっと待ち続けた彼が報われるのは今だと言わんばかりに
翌日の男子ショート、4回転回避をした日本人選手の演技結果が浅田選手の選択の道を決定づけた。
6分間練習後、これまで通り、最終的な決断は彼女自身に任された。
そして彼女は、納得の上での3アクセル回避を口にした。
逃げではない、彼女が現実を受け入れた証拠だった。
“自分自身が結果を出せず、苛立ったり落ち込んだり、苦しみながらも最後まで諦めず努力を怠らない”
それはもちろん辛く厳しいに違いない。
けれども、自分でない人がその状態にあるとき。
一緒に苦しんで、相手がそこから抜け出せるまで、身代りになってあげるでもなく見捨てるわけでもなく、
じっと見守り続けると言うのは非常に歯痒く、当人以上に忍耐のいることだ。
信夫コーチは浅田選手のコーチを引き受けるとき、
「こっちも我慢するけれど、あなたも我慢だよ」 と言葉をかけた。
私が彼のことを 『真央選手のコーチとして素晴らしい人選だ』 という印象を受けたのは、
この言葉を記事で読んでからである。
彼はその言葉通り、彼女に寄り添って、ただひたすら我慢を重ねた。
言いたいことは山ほどある。
本来なら明らかに間違っている彼女のやり方を軌道修正をしてやりたいのだ。
けれども、その方法では上手くいかない。
時間はかかるが、見守るほか、手立てはなかったのだ。
人はこれを遠回りの選択だというかもしれない。
しかし、信夫コーチのこの選択こそが、浅田選手の心を大きく成長させ、
自信を取り戻させ、彼女の心に変化を与えたのだ。
五分五分は愚か、9割以上の可能性で失敗するとわかっている技を
本番で挑戦させるコーチなどいるだろうか。
ただでさえ浅田真央選手は、世界の頂点を極めたトップ選手である。
一歩間違えば世界中から大ブーイングの嵐になる。
まさしく異例である。
そんな非常識を背負ってでもそれを認めたのは
浅田選手の成長のために、それは必要な過程であったから。
けれどもコーチの立場としては、非常に受け入れがたい選択を、
彼は浅田真央という教え子のために選んだのだ。
努力家で実直で、芯が強い、真っ白な心をもった浅田真央選手。
私は彼女の事を何より尊敬している。
けれど、それ以上に彼女の師事する佐藤信夫氏の懐のデカさと
愛弟子のために時には自分の信念まで曲げて見せる彼の偉大さを
心の奥底から深くふかく尊敬してやまないのだ。