私は、心の真ん中に「誰か」を置くことが、とても怖かった。

 

その位置に「誰か」を置いてしまうと、

その「誰か」を失った時に、

私はひとりで生きていけないんじゃないかと思っていたから。

 

 

 

最初から「誰かを失うこと」が、私の前提だった。

 

 

 

だけど不思議なことに

 

一度でも、心の真ん中に「誰か」を置いたことがあると、

たとえ、その「誰か」を失っても、

「心の中に誰かが居続ける」ということに気づいた。

 

 

 

思い悩んだ時、

 頭の中で「誰か」だったらどうするだろう?と考える。

辛い時や苦しい時、

 「誰か」にかけてもらった言葉が思い浮かぶ。

嬉しい時や楽しい時、

 「誰か」の喜ぶ顔が思い浮かぶ。

 

 

 

私はひとりだけど、

 ひとりじゃなかった。

 

「誰か」に愛されていたかなんて、わからない。

そもそも「愛」とかよくわからない。

だけど確かに、「誰かは私の一部」になっていることだけはわかる。

 

 

 

再び「誰か」を好きになることは怖い。

傷つくことが分かっているから。

 

だけど、「誰か」を好きになってみたら

物理的にその人とお別れが来ても、

私の中では生き続けるかもしれない。

 

 

 

私は母子(親子)で、愛着関係が築けなかった。

それに代わって、恋人が愛着の土台になってしまったのかもしれない。

 

だから、こんなにも苦しくて、ダメージが大きかったのかもしれない。

 

 

 

有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』の謂わんとするところが、

なんとなくわかるように感じる。

 

だとしたら、私は

人に愛されるより、愛してきたんだと思う。