高度な知能を持った、人間の心理は複雑だけど
動物としての行動パターンは、シンプルだ。
「誰でも」人間であり動物だ。
人間であることを忘れた動物も
動物であることを忘れた人間も
どちらかに偏りが強いほど、判断を誤るのだと思う。
私の失敗は、後者に偏り過ぎた。
いつからか、人を形容するのに
「モンスター」という表現が使われ出した。
その内に「ボス◯◯」「マウンティング」などという言葉が、会話や文章の中に、頻繁に踊り出てきた。
最初に聞いた時は、正直、「人に対して使う表現じゃないよな。」と、内心苦笑した。「この言語感覚は、私には無いな。面白いな。」などと、若干、小馬鹿にする意味合いもあった。
しかし、私が無知過ぎた。
残念ながら、本当の馬鹿は、私の方だった。
私には、「人間は人間だけど、動物でもある」という至極当たり前の思考が、ほぼ無かったのだ。「人間は人間だ」と信じ過ぎていた。全ての行動には「明確な意味や意図がある」と考えていた。
仮に失敗しても、内省する力があるから、自分の行動は、感情と切り離し、ある程度思考でコントロールできるものと考えていた。
だから、気分を害されるようなことが起こった際、そこには「相手の明確な意図(時に悪意)がある」と考えた。
「何も考えずにやった」ということを、私は全く除外していたのだ。仮に習慣であっても「これは自分の習慣としてやっている」という、自覚に基づくものだと思っていた。
そうやって改めて考えると、
多くの人は、脳に関する知識は皆無でも、
人間の動物的側面を自然に理解・認識しているのだな。
だから「ボス◯◯」「マウンティング」という、人間(動物)の本質を突くような秀逸な表現が、多様されるようになったのだなと考えた。
なるほど、賢いなと勉強になった。
自分の人間理解の未熟さを思い知った。
そう考えると、実は人間というのは、
「自分の動物的行動を、社会の中で都合よく正当化する為に、高度な知能を発達させたんじゃなかろうか?」と、思えてきた。
……キリがないので、このあたりで止めておく。
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そういえば昔、言語学の教授で、女子高生の言葉や新しい言葉をひたすら収集している方がおられた。
「言葉」は記号で、
「新しい言葉」が生まれる・使われる背景には
「新しい文化」が生まれている
とのお考えの基に、収集していると伺った。
新しい言葉を耳にすると、その意味や用法までも、直接若者に聞いて確認しておられたようだ。それをカードに記録し保管。調査研究しておられた。
……なるほど、その話が蘇った。
言葉は文化だ。