嘗て私は、とある法人で編集のお手伝いをさせていただいたことがあった。

今から10年以上前の話だ。

 

そこで実際に知能に障がいを持った方々と直接会い、お話をさせていただいたり、作った作品や手記などを読ませていただいた。

福祉のことなど全く知らない時だった。

当事者の方々の書いた内容に、気づかせていただいたり、学ばせていただくことが多かった。

とても、胸を打たれた。

 

だからこそ、障害者虐待の被害に遭ったという旨の原稿が上がってくると、憤りを覚えた。

私がお会いした限りの方達は、とても大人しく、とても真面目で、純粋で。

気持ちを言葉にうまく表現できないからといって、いじめて言い訳がない。

普通の人だって、こんな環境・低賃金で働くことは大変なのに、なぜこんな境遇に置かれなければならないのかと。

 

ごく当たり前に、彼らの置かれた不条理な環境に憤りを感じた。

 

 

 

当事者の方の書いた手記に「自立」をテーマにしたものがあった。

 

「"自立" とは、自分にできることは自分でやって

自分にできないことは、人にちからを借りること。

僕たちには自分でやりたくても、どうしてもできないことがある。

だから、自分にできないことは、勇気をもって人に助けを求められることが ”自立” なんだ。」

 

と、あった。

 

 

 

障害の有無にかかわらず、なんて謙虚で、なんて素敵な考えなのだと思った。

一人暮らしをしたから「自立」

仕事をしてお金を稼げるから「自立」

確かにそれは、自立の一形態だけど、

そんな表面状のことではなく、もっと根幹の大切なことを、私は教えてもらえたような気がしたんだ。

 

 

 

また、先の学校でも、実際に軽度知的能力障害の当事者の方とお会いした。

とてもおだやかで、ニコニコ。明るくお話をしてくださった。よく話を伺っていくと、不条理な体験もされてきたようで、それをニコニコ話されるから、とても心が痛んだ。むしろ、彼らより、周りにいる人があまりにも心がなさすぎると感じた。

自分がされて嫌なことを、どうして反抗できない、うまく表現できない人に対してできるのだろう。

 

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 

その一方、福祉にかからない

定型や健常といわれる範囲の中に……つまり、私たちのごく身近には

 

・罪悪感なく、虐待・折檻、いじめができる人間がいる

(モラハラ 、クレーマー、パワハラ、DV加害者)

・自分を顧みない

・様々な場所でトラブルを起こすが責任を取れない

・他罰的、他責的

 

どの場所にでも、必ずいる。

 

私はいく先々で、こういう人にターゲットにされてきた。

最初の人間関係「母子関係」がこれだったからだろう。

 

話す内容や筋を追っていくと、理解力の微妙な差や食い違いを、大体見分けられる。

或いは、発する空気ですぐに察知できる。

もしかしたら依存症者の嗅覚のように、被虐待者だからこそ、この手のタイプに嗅ぎ分けられてしまうところが、あるのかもしれない。攻撃しやすい人を見つけるのがうまい。

 

そんな彼らの性質も、先天的な脳の器質によるものだとしたら、同じ脳の障害とはいえ、ここまで違うものなのかと驚く。

 

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 

障害を持って生まれることは、本人の意志ではない。

そして誰のせいでもない。

 

障害の有無にかかわらず、命の重さや人としての尊厳は、等しいと思う。

 

 

だからこそ、思う。

 

障害の区分で支援するだけではなく、

誰が困っているか?

誰が支援を必要としているのか?

を考えることだと思う。

 

 

近年、「ヤングケアラー」という言葉が認知されてきたが、

障害者を抱える家族

誰かを支援する役割を担う人

そういった方の支援が、蔑ろにされている気がする。

 

 

子どもを産み育てる権利は、誰にでもある。

だけど、産み育てた子どもに虐待……というよりも、犯罪レベルの行為をして命を脅かしていい権利など無い。

 

 

 

福祉施策や制度に乗っている方ではなく

・子どもの感情を理解できない、共感できない

・子に適切な反応を返せない

・精神疾患、知的障害、依存症などがある

 

そういった愛着形成に関わる養育能力に困難を抱える人たちを支援するとともに、親、或いは、主たる養育者に理解者を持てず、過酷な環境を独力で生き延びるしかなかった、成人の虐待サバイバーのメンタルケアが必要だと思う。

 

PTSD・精神疾患(心因性)・依存症……お話を伺っていくと、そこに至る背景に、幼少期の虐待(4類型)、異様な養育環境が語られることがあった。

 

 

 

表面に出ている症状で、

また、一般的な解釈で、

全ての人を当てはめようとしたら大間違いだ。

 

誤った情報や、個別性の無い一般論に落とし込んだ発信は、本当に苦しむ人を「自己責任論」に追いやる。そして、汎用性の高い「共依存」「AC」「発達障害」「パーソナリティ障害」などのラベルとともに、一蹴されてしまう。

 

 

障害で人を見ない。

だけど、障害の特性の理解は必要だ。

 

弱者の強さを振りかざすのではなく、

その環境、その場所で、一体誰が、どのような困りごとを抱えて、誰に対して支援が必要なのか?

 

その上で、本当に困っている、本当に手を差し伸べて欲しい人は誰なのか?

きちんと見極めていかないと、いけないと思う。

 

 

関わり方とシステムの見直しが、必要なんだと思う。

 

困っている人が、これ以上傷付けられないように。

声が大きい(発信の影響力が大きい)というだけで、個別性を無視した「自己責任論」で、これ以上、傷つく人が増えて欲しくないと、私は思う。