27、28歳の頃

ある新聞社の中途採用募集の広告を見て

応募したことがあった。

 

 

小さい頃から新聞記者のような仕事に憧れていた。

でも九州の田舎で育った自分には

到底無理だと最初から決めつけていた。

 

でも、東京で働くようになり、

もしかしたら自分にも

チャンスがあるのではと応募してみたのだと思う。

 

満員電車の中、日経新聞を読みながら

通勤していた時代だった。

 

 

そのころは、毎日、22時前に

家に帰ることはないくらいの生活をしていた。

平日は、家に帰ればお風呂に入れば寝るだけ。

やかんででお湯を沸かしたこともなかった。

休みの日も遊びで忙しい。

 

 

そんな中、応募用紙に手書きで一生懸命書いて

応募(郵送)したのだった。

 

 

その後、何かあったかというと、何もなかった。

家の留守電に黒電話をガチャンと切るような

音が何度か残っていて

もしかして新聞社からかな?と思ったことが

あったが、仕事・仕事の環境だったので

うやむやになってしまった。

あれほど、一生懸命応募用紙を記入したのに

どうでもよくなったのだ。

 

 

応募用紙に記入しなければならない

内容は、「今の(当時の)仕事」について書くというものだったが、

書いているうちに、自分に向かい合うことができたのかもしれない。

満たされていなかった心を自分の力で埋めることができ

満足したのかもしれない。

 

 

 

 

 

今日の午前中は平和ガイドの仕事をした。

といっても、まだまだガイドをする自信も実力もない。

ヘルメットなどを渡すだけのヘルプのみ。

 

 

でも、沖縄に住んでいる以上、

過去の歴史を学んでいきたい、知りたい

という気持ちだけは強く持っている。

 

いつかは自分の言葉で伝えていきたい。

 

 

今日は本州から修学旅行で沖縄にきた

高校生への平和学習。

ヌヌマチガマという戦跡の案内だった。

 

 

ガマというのは、沖縄弁で洞窟のこと。

 

沖縄には琉球石灰岩でできた自然の

洞窟がたくさんある。

戦争の時、ガマは、

住民の避難場所・生活の場所として使われたり、

軍人が基地として使ったり、

病院として使われたりしていた。

 

 

約500m程あるというヌヌマチガマ(一部な人工壕)

は、傷病兵を治療する病院施設として使われた。

 

米軍が沖縄に上陸後の1945年4月下旬、

八重瀬岳にあった第1野戦病院の本部壕だけでは、

増加する負傷兵を収容できなくなったため、

ヌヌマチガマが「新城分院」として開設された。

 

多い時には1000人もの方々が収容されていたという。

 

 

修学旅行生は男子校の生徒だった。

2クラスあり、私がヘルプをしたのは15人ほどのクラス。

40人くらいいるもう一つのクラスに比べ

 

・・・なんだか不良っぽい。

 

 

私の高校時代は不良全盛期時代

(ビーバップハイスクールなどが流行っていた)で、

しかも私の育った場所はそのメッカとも言っても良い北九州。

少しだけその時代の雰囲気を思い出すような子供たちだった。

 

 

 

ガイドの説明は、Kさんという私の母親世代より少し若い

小柄で優しい雰囲気の方。(実際とても親切で優しい)

 

 

2クラスあるので最初に地上で説明を聞くクラスと

最初にガマに入るクラスに分かれる。

 

 

私がヘルプをしたクラスは

初めに地上で説明を聞く方のクラスだった。

 

 

生徒たちが、Kさんの説明を聞いている時、

お世辞にも真面目に聞いているとは言えず

20分ほどの説明を退屈そうに聞いている姿は、

見ている方が辛くなるほどだった。

 

 

そしてガマへ。

 

 

ガマに入る時には、長靴に履き替えてもらう。

その案内や、ヘルメット、軍手、懐中電灯を渡すのが私の仕事。

 

 

その時、生徒と直接コミュニケーションを

取るが、いろんな子がいる。

 

 

何も言わない子、ありがとうと言ってくれる子・・

 

 

ありがとうと言われると嬉しかった。

 

 

先にガマに入ったクラスの中には、ズボンを

ドロドロに汚してガマから出てくる子もいた。

その姿を見たからか、

後から入るクラスの15人は全員が、

制服のズボンの裾をくるくる膝上まで巻いている。

その姿を見て、まだ子供だなー。かわいいなーと思った。

 

 

担任の先生は若くて元気のよい気さくな先生だった。

 

 

先生がヘルメットの大きさを調整しているのを見て、

「大丈夫ですか?」と声をかけたら

「ヘルメットをしながら授業をしないと

いけないようなクラスなんで大丈夫です」と

爽やかに言われ、ギョッとした。

 

 

後になって、先生が温かい目で生徒を

見ているからこそ言える冗談だったとわかったが

その時は笑えなかった。

 

 

暗くて足場の悪いガマの中に入ると、

生徒たちは、いよいよ落ち着きがなくなり盛り上がっている。

まるで探検をしているような感じで楽しんでいるのだ。

 

 

でも悪い気はしなかった。

 

 

・・戦跡だからと、しんみりしなくてもいいと思った。

 

 

ガマの中では、ガイドのKさんが説明している時も

生徒たちは興奮していて、説明を聞いてないように思えた。

 

 

落ち着きはなかったけど・・

でも、違っていたのだ。

 

 

見学を終え、手を振って、バスを見送った後、Kさんが言った。

 

 

ガイドをしてから初めて、

「清子さん」と、自分の名前を呼んでもらえたと・・

 

一方通行じゃない。

ちゃんとコミュニケーションをとっていたのだ。

今思うと、目線がとっても優しい子たちだった、

 

 

 

私が会社を辞めて新聞社で働きたいと母に伝えたとき

(ブログ冒頭の出来事)、母は反対した。

だけど父は「女の子だから好きにさせろ」と言っていたそうだ。

父が亡くなった後、妹に聞いた話。

父は、「女の子は優しければいい」とも言っていたそうだ。

 

 

 

女の子じゃなくても、優しければいい。そう思う。

 

 

 

優しい、の意味は、

 

生命に対する優しい視線

 

そういう意味で父は言っていたのではないか。

今になって思う。

 

 

だから男でも優しければいい。

 

人間は優しくないといけないのではないか。

 

もっと生命に対して。

 

 

 

ガマに入る前、

先生に許可をもらって2枚だけ写真を撮っていた。

 

 

帰り際、先生からその写真をくださいと言われた。

 

 

その時、私の携帯の写真を一緒に見ていたら

先生からこれも欲しいと言われた1枚。

 

 

修学旅行のバスがくる前に、

八重瀬ガイドの会と背中に書いてある

ポロシャツの後ろ姿を撮ってもらった写真。

 

 

 

「こんなのでいいのですか?」と言ったら

「こういうのが後で思い出になる」

とおっしゃっていた。

 

 

 

もっとたくさん写真を撮ってあげれば

よかったなと思った。

 

写真1

ヌヌマチガマへは急な階段を降りていきます。

 

 

写真2

ガマの入り口。

ここから50メートルほど奥へ行く。

鍾乳石からは水が滴り、真っ暗な世界。

 

 

 

沖縄にはガイドの会社がいろいろありますが、

八重瀬町ガイドの会をご指名ください!

 

 

経験豊かなガイドの方がたくさんおられ、

終わった後のお片付けや清掃もきちんとしている良い会です。

 

八重瀬町ガイドの会公式ホームページ

https://yaesetownguide.okinawa.jp/

 

 街歩きもやってます!

 

 

八重瀬町ガイドの会インスタグラム

https://www.instagram.com/yaesechogaidonokai/