詩人 塔 和子さん のことを、たまたま録画していた

NHKの「あの人に会いたい」という番組で知りました。

 

 

 

塔さんはハンセン病元患者で、国の強制隔離政策で

病気が完治してからも故郷に帰れない、

本名を名乗ることもできない、

家族と外で会うこともできないという

日々を過ごされたそうです。

 

 

想像もつかないくらいどん底の日々を送られていた

塔さんのつくられた詩に、心をうたれました。

 

 

そして、ふと、全能の神からすれば

知らないということは罪だなあと思いました。

 

 

知らないから怖がる。

知らないから嫌う。

知らないから過ちをおかす。

知らないから戦う。

 

 

人は産まれながらの罪人という言葉を

思い出しました。

 

 

そして、知らないから罪人ということなのかな?と

思いました。

 

 

人生生きていると、いろいろな経験をします。

でも、あの辛く苛酷な経験があったこそ、知ることができた。

と、思える出来事があります。

 

 

そんな気持ちになれたとき、自分の心の闇が光に変わった瞬間

ではないかと思います。

 

 

闇を知ったからこそ光になれる。

光を放射する、エネルギーを与える

存在になれるのではと思うのです。

 

 

それは、人の痛みを自分の痛みのように思い、

愛を注ぐことができる人。

 

 

 

どれほど苛酷な状況にあろうとも

気高く生きた 塔 和子さんの

生き方は、生命としての、そして

人間が神の領域へ脱皮するための

生き方ではないでしょうか。

 

 

 

塔さんほど苛酷な状況ではなくても(私も含め)、

傷つき、いろんなことに絶望を感じている方もいると思います。

 

 

下に、塔さんの 「師」という詩を載せています。

 

 

愛に知ろう、愛に生きようとしている人にとって、

勇気が湧いてくる詩だと思います。

 

 

 

NHK あの人に会いたいより・・・

 

 

塔和子さんの、力強い言葉で生きることの本質に迫った

詩の世界は多くの人の心をとらえた。

 

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はだか木           塔和子

 

生きていることは

ひとりで大地の上に立つこと しかし

若々しく茂っていた日を あとにして

みんないつかはだかになるのだ

 

私よ

おまえは

あのはだか木のように

冬の大地に

はだかで立つことができるか

 

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塔さんはハンセン病元患者です。

亡くなるまで70年の歳月を

瀬戸内海に浮かぶ大島の療養所で暮らしました。

 

病気の完治後も

国の強制隔離政策と

社会の根強い偏見から

ふるさとに帰ることも

本名を名乗ること、

家族と外で会うこともままならない。

 

そうした中で詩が生まれた。

 

 

 

塔さんは昭和4年愛媛県の漁村で

8人兄弟の次女として生まれた。

11歳だハンセン病にかかり

13歳で遠く離れた療養所へ。

 

治療が終われば帰るつもりだった。

 

しかし、当時ハンセン病はらい病と呼ばれ

あやまった認識のもと、

政府は患者を生涯強制隔離しました。

 

帰りたくても帰れない。

 

自由を奪われた中、

心の支えになったのは文学でした。

 

同じ療養所に入所していた

歌人の赤沢正美さんを師に詩作をはじめます。

 

二人は生涯を通じて師弟として、夫婦として支え合いました。

 

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師           塔 和子

 

私は砂漠にいたから

一滴の 水の尊さがわかる

 

海の中を漂流していたから

つかんだ一片の 木ぎれの重さがわかる

 

闇の中をさまよったから 

かすかな灯の見えたときの喜びがわかる

 

苛酷な師は

私をわかるものにするために

一刻も手をゆるめず

 

まだまだおまえにわからせることは行きつくところのない道のように

あるのだと

 

愛弟子である私から

手を離さない

 

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戦後ハンセン病の特効薬が日本でも手に入る

ようになってからも、国は、らい予防法の名の下

隔離政策を続けた。

 

塔さんは昭和27年には完治。

しかし閉ざされた生活が続く。

 

なぜ生きるのかという心の叫びは

詩の世界で消化されていった。

 

その名が全国に知られるようになったのは70歳。

もっとも優れた詩集におくられる

高見順賞を受賞。

 

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記憶の川で        塔 和子

 

忘却という言葉さえ

それは在ったということを消しようのない

証しとなる

 

人はいつも

忘れたいと願うことや

覚えておきたいと願う 記憶の川を下って

流れの元は 忘れていない

 

流れの元とは生きる力。

その思いがつらぬかれている。

 

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塔 和子さんの言葉

 

「不幸でなかったら

明るい方を見ないんですよ。

 

不幸だから こうなったら

幸せになれるというような

 

希望があってそれが

作品になっていると思うんですよ。

 

だから不幸のどん底にいるような

話はできないんですよね。

 

不幸であれああるほど

幸せになりたいという希望が強いんでしょう。

 

だから反対に

幸せを求める詩が多いんですよね。 」

 

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瘤(こぶ)          塔 和子

 

樹木の瘤をさするとき

 

深い深い重さがある

 

遠い遠い悲しみが伝わって来る

 

きびしい風雪に耐え

内部の傷をいやし続けた瘤

瘤は傷痕 だが美しい

 

ほかのどの木より

 

瘤の多いおまえの外観は

ひときわ目立つ

 

ああ その背伸びをしない

安定の美しさに

私のすべてをあずけて眠りたい

 

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絶望の中にも喜びや慈しみを見出す塔さんの詩は

多くの人に生きる勇気を与え療養所を訪ねる人が増えた。

 

訪れた人々の中からは、ハンセン病やその苛酷な歴史を広く

伝えたいという願いも増えた。

 

 

 

ふるさとへ帰りたい、その悲願がかなったのは

亡くなってから1年後のこと。

 

姉の人権を回復したいと願う弟の手で

遺骨が実家の墓に納められ、

本名が刻まれた。

 

70年の時を経て、家族の元へ帰った塔和子さん。

 

生きた証の詩とともに、次の世代へと残された。

 

 

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胸の泉に       塔和子

かかわらなければ
この 愛しさを 知るすべはなかった

この 親しさは 湧かなかった
この大らかな依存の安らいは 得られなかった
この 甘い思いやさびしい思いも知らなかった


人は かかわることから さまざまな 思いを知る
子は 親とのかかわり
親は 子と かかわることによって
恋も友情も かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ


そして人は
人の間で思いを削り 思いをふくらませ
生を綴る


ああ 何億の人がいようとも 

かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない

 

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