手が震えた。かつて人を殺めた己が、この血濡れた腕で無垢な赤子を抱いてもいいのだろうか、と。
真白い木綿の布に包まれた、甲高い泣き声を上げる小さくか弱い存在をみて、最初に考えたのはそんなことだった。
妻が産気づいたという知らせを受けて大急ぎで屋敷に戻ってきてみれば、思いの他あっけらかんとした表情のマリアがいて、拍子抜けしてしまった。
どうにも、痛みには波があるらしい。数分前までは腹の中を鷲掴みにされ、絞られるような痛みが続いていたという。当人はまだ笑う余裕さえあるようだが、助産師は「初産でここまで余裕のある方も珍しいですよ」と驚いていた。
マリアは今の見た目からは想像出来ないほど精神力も気も強く、そして忍耐強い女だ。俺にさえあまり弱さを見せようとはしない。今も、強がっているだけだろう。
いつもの調子でたおやかに微笑むマリアの側に寄り、優しく手を握る。
「マリア、大丈夫か?」
「ええ、今は大丈夫よ。それに、もうすぐ私たちの子に会えると思えば、痛みなんて苦じゃないもの」
すでにかなりの汗を流している様子のマリアは、慈しむように大きなお腹をさする。俺もそっとその手の甲に手のひらを重ねた。
「……頑張ってくれ、としか言えないのがもどかしいな」
「うふふ、それだけで私は頑張れるわ。ありがとう、リルド」
しかし、和やかだったのはここまでだった。
その後しばらくして陣痛と呼ばれる痛みの波がやってきて、そこからは怒涛のような時間だった。
助産師に言われるがまま、苦しそうに唸る妻の手を握り、腰や背中をさする。水を飲ませ、汗を拭った。何度目かの陣痛の最中、握られた左手の骨が折れる感覚がしたが、そんな痛みが全く気にならない程にマリアの方が壮絶を極めていた。
痛みで涙を浮かべ、死んでしまうのではないかと思うほど激しく暴れる妻を励ましながら数刻。
結果から言えば、出産は無事に終えることが出来た。生まれたのは娘だった。
あの時聞いた産声を、光景を、俺は忘れることはないだろう。
見たことも無いほど苦しみ暴れていたマリアが、我が子の姿を見た瞬間にほっとしたように破顔するのを見て、自然と涙が零れていた。
生命の誕生とはこんなにも凄まじいものなのかという事を実感し、胸に乗せられた赤子を愛おしそうに見つめる彼女に何度も感謝を伝えた。
「ふふ、貴方が泣くだなんて珍しい」
「こんな時に|揶揄《からか》うな」
髪は乱れ、全身汗だくになったマリアだったが、何故だかとても美しく見えた。頭を撫でれば嬉しそうに笑うから、俺も釣られて笑みを浮かべた。
助産師によって一度連れていかれた赤子は、清潔な布に包まれた状態で戻ってきた。我が子を抱くように勧められ、上半身を起こしたマリアはその小さな体をそっと抱きかかえる。
「ああ、この子は私たちの子どもなのよね。可愛い」
頬を寄せ、触れ合う二人を見て胸に温かいものが広がる。と同時に、簡単に壊してしまいそうなほど小さくか弱い赤子の姿に、怖くもなった。
「さあ、リルドも」
「……俺は」
手が震えていた。屈強な大人さえ容易く屠ったこの手では、勢い余っただけで害してしまうのではないか。そんなつもりはなくとも、簡単に。
こちらを見上げるマリアは、俺が何を考えているのか察したように柔らかく微笑む。
「リルド、大丈夫よ。貴方はもう、昔の貴方ではないのだから」
そう言ってマリアは、なおも躊躇う俺に赤子を差し出す。出産で力を使い果たしただろうに、だるそうに腕を持ち上げて。
プルプルと震える腕を見て、思わずその手を支えた。左手に凄まじい痛みが走る。そういえばマリアに強く握られて骨が折れているのだったなと、顔を顰めた。
しかしそれには気付かなかったマリアは、にっこりと笑みを深くして自身の手をそろりと引き抜いた。
支えがなくなり内心焦りながらも、なんとか赤子を抱き寄せる。想像していたよりも、ずっしりとしていた。
初めは不安定さに泣いていたが次第に落ち着き、そして赤子は笑みを浮かべた。
「泣き止んだ、な」
「うふふ、貴方がお父さんだってちゃんと分かっているのよ」
もう、手の震えは消えていた。
しわくちゃな顔で笑顔を浮かべる我が子の姿を見て、俺が、俺たちがこの子を守っていかなければ、と強く感じた。それは、恐怖など霞むほどの強い決意だった。
生まれた子には『リリア』と名付けた。純粋で誠実な子に育つようにと願いを込めて。
リリア、俺たちの元に産まれてきてくれて、本当にありがとう。
――
―――
リルマリ夫婦の出産の時の話です。
握力で骨折させるマリアさんつおい……
きみは、自分がどれ程の人を笑顔にしてきたのかも、今は忘れてしまっているんだろう。どれ程の人に愛され、大切にされていたかのかすらも。
ぼくのことも忘れてしまったのは悲しいけれど、きみにとって“それ”が辛い記憶だというのなら仕方がない。
それは分かっていても、こうして触れられる距離にきみがいるのに。あの頃と変わらない笑顔で笑いかけてくれるきみがいるのに。同じ記憶を共有できていないという事実が、無性に苦しくて。
またいつか、あの日のようにぼくの前から消えてしまうんじゃないかと怖くなる。
ひゅうと流れる風に誘われて、隣で気持ちよさそうに眠るきみの顔を見つめた。規則正しい寝息に、きみが隣で生きていると実感出来る。
小さい声で「ソウヤ」と、きみの名前を呟く。ただなんとなく、呼んでみただけ。
その呟きがきみに聞こえることはないと思っていたのに、きみの瞼がゆっくりと開いた。まだ寝ぼけているのか、きみの顔を見下ろすぼくをぼんやりと見つめてくる。ぼくもきみのくろい目を見つめ返した。
「よかった、泣きやんだんだね。大丈夫、|わたし《圏》はずっと傍にいるよ」
ふわり、と微笑むきみの掌がぼくの頬を優しく撫でる。
それはあまりにも懐かしい温もり。
別に疑っていた訳では無いけれど、きみの中に、今でもあの日の少女が確かに存在しているのだと、しっかり思い知らされた。
懐かしくて、苦しくて、嬉しくて、切なくて。いろんな感情がぼくの中でぐるぐると渦巻いて、そして視界がぼやけたと思ったら、一粒の雫がきみの顔へと零れ落ちていた。
「っえ、ちょっ、センリ!? ど、どうした?」
完全に睡眠から覚醒したきみが、慌てて身体を起こす。
自分でもどうして涙が出ているのかが分からないから、説明のしようがない。
ただ、たぶん。
「|僕《圏》がなんかしたか? 寝言で変なこと言ったとか?」
きみが、なにも覚えていないからで。今のきみが、ぼくの記憶にいるきみと、重なって見えたからなんだろう。
ぼくは、あたふたするきみの胸にぽふ、とよりかかった。トクトクと、心地よいきみの心臓の音が聞えてホッとする。
「セ、センリ?」
「……」
なんと言葉にしていいかわからなくて、きみの背中に腕をまわして、ぎゅうと抱きつく。ビクッと体を震わせたきみの鼓動が、どんどん早くなっていくのを感じる。
きっと物凄く恥ずかしいと感じているだろうに、きみは無理やりぼくを離そうとしないでいてくれる。そんな優しさが、嗚呼……。
「手、震えてるよ」
「…………」
「……センリが感情を露わにするなんて珍しいな」
ぼくは長い間、あの隔絶された場所にいたせいで、感情をうまく表現することが出来なくなってしまった。声も、言葉も、うまくでない。
せっかくきみと一緒にいられるというのに、それがもどかしくてたまらない。だからぼくは念話で、たどたどしくきみに気持ちを伝える。
『こう、してたら、おちつく』
「………そ、そう。なら、もう少しこうしててもいーけど」
少し照れたようにそう言うきみの言葉に甘える。
きみの鼓動と、きみの匂いに包まれているこの時間が、とても幸せに思えた。
だから、ずっと恋い焦がれたきみに触れて、言葉を交わせる今を大切にしていこう。
それからいくら経っただろうか。タッタッタッと規則正しい足音がこちらへ近づいてきているのが聞えてきた。
「そーちゃーーんっ!」
「ごべぶっ!」
「っ!」
きみの魔力で人化してしまった帝の仮面、リンがきみの背後から突進してきた。その衝撃でもきみもろとも倒れてきて、少し体が痛い。
きみとの二人の時間を邪魔されたことにも腹が立つ。けれど、相手は子供だから、と自分を諌めた。
きみと紡いだかけがえのない日々を忘れてしまったのなら、これから先、もっとたくさんの思い出を作っていけばいい。
そしていつか、きみが記憶を思い出せた時には、ぼくもあの頃のぼくに戻れるような気がするんだ。
――
―――
あるのどかな日の一コマ。
無口なセンリの内面を描写したかったのだと思われる……。
自分で言うのもなんだが、僕はかなりメンタルがよわよわだ。豆腐より崩れやすい精神力は、簡単に崩壊する。
普段はそれでもなんとか気張ってやっているけれど、たまに隠し切れないことだってある。これはそんな感じの話。
***
あー、疲れた疲れた。最近、やっと魔物が殺されるところを見ても動けなくなることが少なくなってきた。まあそれでもまだ、自分でトドメを刺したりは出来ないんだけど。
魔物が増え過ぎたら人間が襲われてやばいから、適度に間引かねばならないのは分かる。元の世界でも野生動物が増え過ぎていればそれなりの措置を取られていたはずだし。
だから頭では必要性を理解しているのに、それが実行できない自分に苛々する。
殺されているところを見るのは精神的にクるわ、自分に苛々するわで心の疲労が半端ない。正直かなりしんどい段階まできてる。
覚悟が足りないんかなあ、やっぱ。自分なりには頑張ってるつもりなんだけどなー。覚悟、覚悟かぁ。
ベッドに浅く腰かけて、深く深くため息をついた。
「なげーため息だな。幸せ逃げんぞ」
窓から差し込む光に照らされて、上品に輝く銀の髪。さらりと誘うように揺れたそれを上に辿れば、心配そうな表情で見下ろす綺麗な顔があった。薄紫色の瞳で、こちらをじっと見てくる。あまりにも真っ直ぐすぎる視線とぶつかって、先に視線を逸らしてしまった。
「悪魔のくせに迷信とか信じるんじゃねーよ、ルシファー」
「なんかあったのか」
間髪入れずにそう問いかけてくる。
何を言い出すんだ。なんで、分かるんだよ。堕天使のくせに人の機微に敏感なんて、卑怯じゃないか。
内心の動揺とは裏腹に「別に何もない」と言葉にすれば、たしかにそんな気がしてこなくもない。僕ってば単純でよかった。
けれど、それで騙されてくれるほど、ルシファーは単純ではなかったらしい。
ずいっと綺麗な顔が近付く。険しい表情をしていても絵画の様に美しい顔だな、なんて思っていたら、不意に頭突きを食らわされた。
「いっ!?」
「俺が、そんな嘘見抜けないわけないだろが。お前の事だから、魔物討伐で参ってるとか、そんな所だろ」
「う……」
今日、何していたかなんて伝えていないのに、完全にバレテーラ。やっぱり悪魔は騙す立場であって、騙されることなんてないのかもな。
頭突きをされてじんじんと痛む額をさすりながら、一瞬睨みつけて、真剣な表情に怯んですぐに目を逸らす。
ああ、そうだよ。確かに僕は参ってますよ。毎日とまではいかずとも、高頻度で生き物の死と無理やり向き合わされて、どうして平気でいられよう。
殺す覚悟? そんなの出来るわけないじゃないか。神の力だとかチート能力だとか、そんなものがあっても、僕自身がいきなり変わるわけじゃない。
むしろ、簡単に死ぬことがなくなって、余計に危機感を持てなくなってるくらいだ。だって、相手を殺さなくても、僕は死なないんだから。
本当は、生き物が死ぬところを見るのはもういやだ。咽るような血の匂いも、耳を裂く断末魔も、何もかも嫌。でも、それでも僕なりに頑張って、役に立とうって思って、やってるのに。
「……邪魔だ、って言われた。こっちは命懸けてやってんだがら、お前みたいな覚悟のねーやつは邪魔だって。確かにって、思った。いくら僕なりに頑張ってみても、それは他人から見れば意味のないことだって、思い知らされたよ」
「そんなことは」
「あるんだよ。限られた人数の中で、機能しない奴がいたら邪魔になるのは当然だろ」
何度も飲み込んできた弱音を、ついに言葉にして、形にして、外に出してしまった。ルシファーが何でも受け入れてくれるふうに振舞うから、言葉が止まらなかった。
でも今は後悔してる。困らせた。宝石みたいな薄紫色の瞳を翳らせるつもりなんて、本当になかったのに。
唇を噛んで、顔を背ける。もう話す事はないという意思表示を込めて。これ以上口を開けば、理不尽に喚き散らしてしまいそうだ。
ぽん、と頭の上に手が置かれた。それでも顔を背けたままでいたら、わしゃわしゃと動物を撫でるみたいにして頭を撫でまわされる。
頭に感じる手のぬくもりに、泣きたくなった。
「よく頑張ったな」
「な、何を、言って」
「お前の頑張り、俺はちゃんと分かってるぞ。ひとりで魔物を殺せるようになるために特訓してたのも、魔物の死に慣れようと必死だったのも、ちゃんと分かってるからな」
そう言ってルシファーは屈むと、僕を軽く抱きしめた。耳元で次々とささやかれる、ぐでぐでに甘やかす優しすぎる言葉に耐えきれなくて、涙が勝手に溢れ出してくる。くそ、泣くな、止まれ。
泣いているところを見られたくなくて、ルシファーの肩に顔を押し付けて、次から次へと溢れてくる涙を拭う。
自分の弱さが嫌になる。
今回は、ルシファーの優しさにまんまと付け込んでしまった。だけど、ほんとは誰でもよかった。
誰でもいいから、頭を撫でて、頑張ったね、偉いねって、子どもみたいにほめて欲しかった。自分の頑張りを、ただ認めて欲しかった。無意味じゃないって、そう思わせて欲しかった。
本当に弱い、弱い。弱くてわがまま。自分の努力が足りないだけなのに。今の自分を認めて欲しくて、優しさを利用した。
悪魔なのに、なんで、どうしてこんなに優しいんだよ。なんで、誰にもバレないようにしていたことまで知って、認めてくれるんだよ。弱い僕は、そんな風にされたらすぐに縋りついてしまうじゃないか。この、僕の自立を妨げる悪魔め。
このままじゃいけない。精神力をもっと鍛えなければ。精神統一のために滝行とかをするべきなのかもしれない。
生き物の死にも、もっともっと慣れていかなければ。この世界で過ごすためには、それが絶対に必要になる。
でもそれは明日からまた頑張るから、だからせめて今だけは。
――
―――
ソウヤが弱ってしまう話でした。
割と昔に書いた話が元なので、今のソウヤよりだいぶ女々しい感じもする。