「雅様って呼ばせてください」
 それが、彼女の初めての言葉だった。

 入学式の日、あたしの後ろの席だった奏を初めて見た時、とても綺麗な女の子だと思った。
 長くて真っ直ぐな黒髪は実に女の子らしい印象で、それでいて奏の纏う雰囲気は深海のように静かな穏やかさを湛えていた。
 そう、あの時はそう感じたのだ。
「みーやーびーさーまー、またあたしの話を聞き流してたよね、今」
「ごめんなさい、奏。あなたの話は要領を得ないのよ、もっと文脈を考えて話して欲しいわ……」
「う、どうせ成績優秀な雅様には不出来なわたくしめの話は理解出来ないのよ……これでもくらえ!」
 そう言ったと思えば、いきなりあたしの口に奏が手に持っていた食べかけのサンドイッチを押し込んできた。|奏の食べかけの《圏》、だ。
 あたしは驚いて口から出そうとするものの、得意気な顔の奏がそれを許さない。「わたしの話を聞かなかった罰よ!」とかなんとか理不尽な事を言いながらぐいぐい押し込んでくる。
 仕方なく、黒崎くんが作ったのであろうハムサンドを咀嚼した。薄味が好きな奏に合わせてマヨネーズの量が抑えられている黒崎くん特製ハムサンドは素朴な味わいで美味しかった。
 確かに美味しかった、けれど。
 そっと奏の様子を伺う。あたしが大人しくサンドイッチを食べたから満足げだ。でも、それだけ。
 奏からしてみればただの友人にサンドイッチを強引に食べさせただけなのだし、他に何か思う事もないのだろう。
 でも。でも、あたしは。
「どう? 今、雅様に食べてもらったのはりっちゃん特製のハムサンドなのです! 美味しいでしょう?」
「そうね……。黒崎くんはあなたと違って料理が上手だものね」
「わ、わたしだってカレーなら律己にも負けないのよ! カレーなら!」
「カレーなんて小学生でも作れるじゃない……」
 奏はむっとした表情で何か反論をしていたけれど、あたしの耳には入ってこなかった。
 自分のお弁当をつつきながら、先ほどの思考に戻っていく。
 第一印象こそ、クールでどこか神秘的な雰囲気すら感じた奏だったけれど、今はその印象は影を潜めてしまった。尤も、今でもふとした瞬間にそんな雰囲気を醸すことがあるのだけれど。
 涼やかな外見とは裏腹に、少しばかり喧しくて快活な彼女はとても親しみやすかった。恐れられてばかりで友人なんて一人もいなかったあたしでも仲良くなれたくらいには。
 しかし目の前のこの子に初めて声をかけられた時は本当に驚いたものだ。
 かけられた言葉が、第一印象からかけ離れていたせいもあるのだろうけれど、まさか|わたし《圏》に話しかけて来るなんて。
「奏。なんで入学式の日、あたしにあんなことを言ったの?」
 真っ直ぐな黒い髪を左手で耳にかけながら、右手でサンドイッチを頬張ろうとする奏は、少し驚いたようにあたしを見た。
 出会った時からずっと不思議に思っていた事がつい口をついて出てしまった。すぐにしまったと思ったが、あたしは動揺を隠すように静かに目を伏せた。
「いきなりどうしたの?」
「いいから」
 この際だから理由を聞いておこうと思い、そのまま奏の返答を待つ。
 奏はサンドイッチを一度置き、目を閉じる。これは彼女の癖。何かを思い出してから言葉を発そうとしている時によくやるのだ。
 数秒待てば、彼女は長いまつ毛に縁どられた切れ長の瞳をゆっくりと開いてアタシを見る。
「名前……鬼頭雅って名前、すっごくかっこいいじゃない?」
「は……?」
「だ、だからね。雅様を一目見た時、漫画にいそうなくらいかっこいい人だなって思って。名前を知った時にあまりにもかっこいい名前だったから、どうにか仲良くなりたいと、勢い余ってあんなことを口走ってしまったというか、その……」
「そ、そう。奏は本当に対人関係は迷走するわね……」
 そう言うと奏は困ったように眉を下げて笑った。
 あたし自身、奏のことを言えないけれど。自分の方がよっぽど迷走している。今この瞬間も、奏とどう接すればいいのか、悩んでしまうのだから。
 そしてこれからもきっとあたしは自分の気持ちに整理がつかないまま、奏とどう接していけばいいのか悩み続けるのだろう。

 この関係を壊す勇気なんてないから、もしかして、の気持ちに蓋をして。
 あなたのそばで一番の“友達”として、悩みながら支えていこう。いつまでも彼女が笑っていられるように。


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友達でいるために、気付きかけた気持ちに蓋をする女の子の話。
でもこういう事って多いだろうと思うんですよね。