「神は存在するか?」という問いに対して
1月1日の本Blogのアクセス数が、50強となっていた。今までは基本的にアクセスなし、記事を書いた日に数件のアクセスがある程度だったことを考えると、嫌とは言わないが、異常な数に見受けられる。人の動きというものは、現実社会であってもインターネットの世界でもどうも読みにくいものだ。
先日に引き続き、「補記」を利用して現在思うことを書いてみようと思う。テーマはタイトルが示す通り「神は存在するか?」である。しかし、本旨に先立って、私の宗教について簡単に書いておく。
・特定の宗教・宗派には属していない。
・七五三は神社で祝い、実家ではクリスマスにごちそうを食べた。そして先祖の墓は、仏葬である。
・子供時代にはプロテスタント系キリスト教会の日曜学校に通っていた。
以上のように、私は特定の宗教の信者ではない。そして、現存の宗教が、(反社会的要素を持たない範囲において)それぞれの道を究めることについて、特に意見を申す必要もないと思っている。よって、本記事については、特定宗教について批判を加えたり逆に推奨したりする類の文面ではないことを理解されたい。
。。。。。。。。。
「神は存在するか?」、という問いは、誰しも一度は耳にしたことがあるだろう。そして、多くの日本人は、あまり意識したことはないようである。まず、現在の私の回答は一文に尽きる。
「神は、いると考えればいるし、いないと考えればいない。」(※1)
神といっても、様々な神が言われている。私が考えるにあたっては、この神は限りなく物理世界に縁遠く、限りなく人間の限界を持たず、不変であって限りない普遍性をもつ、砂漠の一神教の神「ヤーヴェ(YHWH)」を想定した。人間の延長線にある、日本古来の神やギリシャ神話の神では、そもそもの存在を考えた時には精神論よりも歴史学的な方法論をとらざるを得なくなってしまうからである。(歴史学的な方法論 ・・ 例えば「構成の人間が先祖を神格化した」という観点から考証していくこと。)
さて、そもそも人の中で、神と直接接触した前例はあるのだろうか?
古来の聖典、新興宗教の教祖様の発言など、それを示唆する材料は巷にあふれている。「ヤーヴェ」について言えば、アダムに始まりモーゼにいたるまでの各預言者が該当するだろう。
ここで、1つ難しいのは、彼らが接触したその存在は、どのようにして「神である」と確定されたのか、ということである。おそらく、神の存在を信じない民衆は、彼ら預言者に対して「本当に神と接触したのか?」と疑いの目をむけ、疑問を提起しただろう。そして、預言者はその場なり長い時間をかけてなりで疑問に答え、民衆を教化していったのだ。
神の証明には、人間では不可能と考えられる事を成すに限る。預言されたメッセージが実証されることによって、預言者は信頼を得た。
しかし、ここで疑問を呈したい。それは彼らの証明方法である。神の存在を直接民衆に示さない、その間接的な証明方法である。間接的な証明を行うには、前提条件がつく。その前提条件というのは決して科学的なものではなく、「○○のようなことができるのは神だけである」という『思い込み』なのだ。
『思い込み』とは、疑わなければならない。証明方法に『思い込み』を用いる限り、神の存在の立証は成立し得ないのである。
したがって、神の存在とは、「いないと思えばいない。」と言うことが可能である。(・・・少なくとも現代においては。)
ただしここで1つ、私個人としては、反論を提起したい。なぜならば、私個人としては、「神はいる(と考えることにしている)。」からなのである。(※2)
神がいるとすればどこにいるのだろうか?
私は、神を、空間を超越した存在と考える。(言い換えると「どこにでもいる」と思っている。)
神を感じるのは、この世界の存在を思うときである。
自然の中に入った自分を想像してみて欲しい、深緑の森でもいいし、地平線の見える大草原や、大海原の真ん中、見渡す限り赤茶色の岩山だけが存在する砂漠の真ん中でもいい。人間は自分ただ一人(何人かの仲間がいてもいい)、その気候に身を合わせ、生命の脅威たりうる危険な自然を警戒し、それでも不思議と人間社会の歯車であった時と比べると自己の精神は開放されている。
このような状況下で、人は、自然の不確実性を強く意識せずにはいられない。自然を例にしたが、不確実性の例は他にもある。人間一人一人の精神の在りようが異なることであってもよいし、生命の神秘性であってもよい。宇宙の始まりや宇宙の果ての不思議でもよいだろう。
いずれにしても、論理的な方法で描き得ないものがあることを知ったとき、それらを統べる未知の法則として、「神」が存在すると仮定することが可能なのだ。これは、少なくとも現代の科学の精度においては、決して非現実的な選択ではない。
ここから導き出された「神」は、姿を見せることがかなわないのは当然であり、まして物を言うこともない。沈黙の神である。神が沈黙した存在であるが故に、預言者が証明方法に間接証明を採ったのは、唯一であり、極めて現実的な選択肢だったのである。(預言者の挙げた根拠が虚偽でないことを前提としている。)
但し、神を未知の法則と置き換える限り、その法則を気にせずにはいられないだろう。未知である以上我々に測り知ることが出来ないのは自明であるのだが、各宗教は、それぞれ独自の戒律を作っていった。(余談だが、私はこの法則を「善く生きること」と考えている。)
尚、冒頭で「神といっても色々な神が言われている・・・」と書いたが、どの神にも共通することは、神性としてこの「未知の法則」を備えていることであろう。私は一神教の説く唯一絶対の神がしっくりくるが、普遍的な存在である神がその神性を仮初(かりそめ)に宿したものが、キリスト教における「精霊」であり、日本人のあがためる八百万(やおよろず)の神と読み替えると理解がしやすいと思う。(※3)
以上が、「神は、いると考えればいる」と私が考える理由である。
神の存在を証明するのには、苦しい理論であることは承知している。ただし、だからといって、「神はいない」と決め付けることはできないだろう。なぜなら、神が存在しないことを、理論的に証明できた人間はいないのだから!(※4)
近年、宇宙物理学の世界では、今の宇宙の創造には何らかの知的意志が働いたと考える説が存在するようである。これはまさに、私の描いた神、そのものではないか。アメリカではこの説が比較的有力であるという話を聞き、一方でこの説に対する議論が簡単に決着しない雰囲気を文面から感じ受けるにつけて、神の存在論議はしばらくの間落ち着くことがないだろう、という思いを私は改めて強くし直す。
※1 考え方次第で結論が変わるという点は、おそらく西洋哲学の認識論と関連性があるのだろう。但し、認識論における神の取り扱いは特殊な問題のような気がするため、門外漢の私は今の段階では深追いを避ける。
※2 括弧書きしているのがミソで、いつか神の存在が完全否定された時に言い逃れの余地を確保している。
※3 このような考え方は、キリスト教では「汎神論的」として非難されるようである。しかし、不勉強な私はその根拠をまだ知らないため、残念ながら本論で勘案することができない。(参考文献:遠藤周作「深い河」)
※4 神が存在しないことを、理論的に証明している文献があったら、教えていただきたい・・改め、教えてください。
2006年の私を振り返る(2)
前稿は、不甲斐ない私を、自虐的に書いた。しかし私は、2006年が決して無駄な一年ではなかったを確信してもいる。それは、私が内面に目を向けたことである。
私は、心を病んでいるような気がしてきた。2005年、資格をいくつも取得したことで自分に一種の自信をつけていたが、次第に「資格を持っているだけの自分」に将来性の希薄さを見出し、何度も精神停滞を迎えるたびに「自分は駄目な人間だ。人から与えられることによってのみ動ける受動的な、それでいて常に不満を抱かずにはいられない不健康な人間なんだ」とつぶやきながらプライベートの時間を漫然と過ごすことが多かった。
5月に、聖書を手に取った。
聖書は、西洋文化と密接な関係があることから、クリスチャンならずとも読んでおかしくはないと思ってはいた。2000年もの永きに渡って読まれ続けている書物を見過ごすことは、何か重要な機会を逸しているような気はしていた。
そして、心の救いとなる考え方、心の在り方を示してくれないかと、聖書を読み始めた。
結果として、聖書はよみかけの状態である。しかし4福音書とヨハネの黙示録、創世記と出エジプト記は一通り流し、聖フランチェスコやリジュのテレーズについての書物に触れ、キリスト教についての溝は浅くなった。(神についての概念を改めて考えるようになったが、それはまた別に書こうと思う。)
聖書を中断した一つの理由に、遠藤周作の文学がある。沈黙を皮切りに遠藤作品を読み進めて行く中で聖書の疑わしさに使ってしまった結果、聖書を開いてもその言葉が私の精神に素直に届かなくなってしまった。
しかし一方で、私は本を再び知った。
遠藤周作の主要作品を一通り読んでいくと、同じキリスト教作家として曽根綾子・三浦綾子の何冊かを手に取った。高橋和巳の「邪宗門」、三島由紀夫の「仮面の告白」「潮騒」、大江健三郎の「個人的な体験」「死者の奢り」、夏目漱石「門」、日野原 重明「生き方上手」・・・完読しなかった本もあるが、今までの年数冊(あるいは0冊)の読書ペースからすると、ちょっとした変化である。所謂「純文学」に固執し、大衆小説と呼ばれる作品はあまり手を出さない傾向にあるようだが・・
本を読むとき、私は何かを学びたいという思いがある。 何かとは、心の在り方である。年末のある夜、そんな話を会社の同僚にしたところ「心の在り方とは何だ」と聞き返され、即答できなかった。
心の在り方とは、何かに向かうときの心構えである。本を読むときであれば、そこから得られるべきものを得るにはどのような読み方がよいか。人と接するに当たっては、どのような場面、どのような人に対して、互いによい効果が得られるのか。人は、どのような心持で会話を行うのか。どうも言葉が空回りしてうまい表現ができないが、私自身に足りないものを、本に求めている。
哲学に憧れ「純粋理性批判」のp.1で既に頭を抱える27歳は滑稽としか表現できないが、マイペースに学んでいくしかないと諦めている。
読書と並んで始めたものは、週1回のプールである。5月に通い始めて以来、ほぼ週次を守っている。ダイエットよりも、運動不足の解消に重点を置いた。65kgの体重は減量せず、姿勢の悪さも相変わらずだが、体力はある程度戻った気がする。元々、体を動かすことは嫌いではなかったし、平日の夜にプールをこなした後などは新しい一日が始まった気がして得をした気分になれる。
そして、孤独に耐えることを学んだ。孤独なときほどわが身を嘆かず、自らの内面と向き合う姿勢である。その中から、深みを掘り起こしていけるようになるのが、2007年の目標の1つだ。
2006年の私を振り返る(1)
2007年の年が明けた。あと一ヶ月程度で満28歳となるが、正直なところ、20代をわずかとすることについて実感が極めて希薄である。そのような私を含めた全ての生ける人間に対し、公正なる仕事人の「時」は、等しく加齢を適するのである。
数時間前に、2006年は終わりを告げた。Blogの趣旨に反することではあるが、匿名性の高いこの場を利用して、私自身の2006年を振り返ってみたい。
私における2006年を熟語で表現すると、「挫折」の2字が適切と考える。1つには、会社の資格等級昇進に失敗したことである。入社当時は2、3年程度で進めるといわれた昇進に、5年を過ぎて猶一般社員に甘んじるのみならず、かつて先輩として接した後輩の昇進を目の前にして、自尊心が打ち砕かれたのだった。2つ目は、資格取得の勉強が一向に進まないことである。決して難関とは言われない「MCP」において、MSCE2003に必要となる最後の1科目の受験で悉く敗退した。最後には、自らの行く先が一向に見えないことである。大学の再受験へ行動に移したものの、肝心の勉強に対して本腰を入れることに躊躇したままついに年を越してしまった。
上に、3つの挫折を書いた。
一般に、自らの失敗については、その原因を他に求めたがるものである。しかし、私はこのような場において、決して自分への評価を効果的に上げることはできないことを知りながらも、原因を私の中に求めてしまう。
会社の資格等級昇進については、様々な推測が可能である。しかしそれを書くには見合った量のテキストが必要であるし、上司からは「運が悪かったんだ。悪いけどあと1年待って。」としか言われない。今は深追いを避けよう。
2つ目に、資格取得の挫折を書いた。しかし、これは一重に私の怠慢である。MCP2003の最後の1科目として、私は「SQL Server 2000(70-228)」を選んだ。未知の製品に敢えて手を出すことで対試験力を養うこと、MCSAを同時取得できること、RDB技術についての知識を身に付けることがその理由であったが、私は利の多さを考えるばかりで肝心の勉強については真剣味が欠けていたようである。
試験は6回受験した。そして、いずれも合格点に至らなかった。
原因がその不勉強さにあることは明らかである。受験1週間前に申し込み、受験前日になってからの漸く数時間程度にしかならない受験勉強では、受からないも同然である。勉強していて、イメージ像があいまいになった場合、常道としてはイメージを具体化するために調べ物なりの勉強を重ねるべきときに、私は眠くなってしまう。折角、自宅に実機を用意しているのにも関わらず、である。
この悪癖には2,3度目の受験後には気付いていたものの、その後の試験日を決める際には数週間のゆとりを持たせたにも関わらず、毎回の受験勉強に本腰を入れたとはとても言えないお粗末な状況であった。(脱線するが、6回の受験勉強に費やされた約6万円という金額は、DVDレコーダーやMP3プレーヤー・ミニコンポなど、買い控えている物欲の対象と釣り合いのとれる金額である。然しながら、受験料を支払う際には、何の迷いも感じない。改めて、自らの金銭感覚に一抹の不安を抱いてしまう。)
3つ目に、自らの進む道である。
昨年以来、私の中には何度か「医」の言葉が浮かんだ。最も親しい友達が医療の真っ只中にいることに影響を受けたのか、その友達への(異性としての)憧れが磁力となったのか、いくつかの伏線が考えられる。しかし、直接的には筋ジストロフィーを特集したTV番組(NHKスペシャル)での医者の患者に対するプロの言葉であったし、技術を持って生身の人と向き合える稀有な職業に就きたいという切実な思いだ、というのが私の私自身に対する公式の見解である。
この1年、身近に、3人の社会人の転機を見た。一人はその親しい友達であり、某国立大の大学院に進む。1人は後輩であり、日本における職業芸術の頂点ともいうべきある一座に、自分を試す心で転職した。1人はサークルの同期であり、仕事の傍らで勉強を重ね、取得の難しいある国家資格に合格し、辞職を決意した。
わが身を振り返る。夏休み、大学見学を思い立つも時既に遅く、予備校の講座に入る程の決心もない。9月、センター入試模試への申し込みに迷っていたところ、期限が過ぎてしまった。11月センター入試模試を漸く受験し、得たことは「受験用の学力は圧倒的に不足している」という事実。12月、センター入試模試の結果を受け取るべきところを日々御座なりにし、ついに今年に持ち越す。
数日前、永井 明の「ぼくが医者をやめた理由」を読んだ。まずまずの腕前を自任する著者に比べると私は、決して手先は器用でなく、体力への自信もない。大量出血の現場を、顔色を変えずに直視する覚悟はあるが、その現場で迅速な判断と適切な行動ができるかどうか、甚だ怪しい。患者を不安がらせない自信もない。私の進む道は揺らぐばかりである。
いじめ
いじめとは、人間に限らず社会を形成する動物に広く見られる行動現象である。また、性格としては多数派に対する少数派へのいじめ、強者から弱者に対するいじめ(所謂「弱いものいじめ」)の2つに大別が可能である。
私にとって、小学校といじめとは、密接な関係にある。特に・・・最後の2年間については、小学校に行くことはいじめと向かい合う事であった、と言い換えることもできなくもない時期である。
未就学の時期については判然としない。幼稚園の頃に時々はそんなことがあったような気もしたが、初めての酷い経験は、小学校の校舎の前で、集団で石を投げられたことである。たまたま気付いた同学年のクラスを持つ教師が慌てて声を出して止んだものの、続いていたら、下手をすれば生傷では済まなかったかもしれない。
いじめとは、複数の人間間における心理状態より始まるものであり、直接の原因を探すのは意外と難しい。石を投げられた時は、元を糺せば子供同士の詰まらない言い合いであった。それが行動に移り、石の投げあいとなり、一方に加勢するものが次第に増え、低学年児童とは言え10人前後対1人という一方的な状況にまで発展してしまった。「赤信号 みんなでわたれば 怖くない」という隠語が象徴するように、いけないこととわかってもみんながやっていれば、自分1人が紛れたって構わないという心理が見かけた児童に働いたのかもしれない。石を投げることにより、相手に対しての優越感を得たかったのかもしれない。
私の通った小学校では、2年単位でクラスが再編成された。3・4年生はいじめの少ない平和なメンバーだったが、対して5・6年生は最も辛い時期である。
それは、1人の児童が中心であった。以前より、学年内でもたちの悪いいじめっ子として名が聞こえていた彼、Eは、他の児童と違っていた。
少なくとも他の児童には全く見られなかったこととして、Eは法律にやたらと興味を持っていた。その知識が正しいかどうか私には検証するべくもなかったが、図書室で子供向けの法律関係の本を読んだ記憶があるのは何かしらの影響を受けた可能性がある。
Eは母子家庭であった。両親のいる私にはその情景を想像することはできなかった。
Eは切手好きであった。同じように古切手を集めていた私は、彼が「切手を買い取るから、みんな持って来い」と言われたとき、知らぬ存ぜぬを通すこともせずに素直に持ってきたばかりか、過剰に余っていたものはあげようとした。当時の心理は、今思い出してもその卑屈さの源の理解できるものではないが、いじめっ子である相手に認められたいという屈折した心理があったのかもしれない。
Eは、小学校におけるいじめの当然の形態として、暴力を振るった。果たしてどこまで強かったかは疑問だが、逆にいじめられるという経験は、おそらく小学校の間では経験していないのだろう。
Eのいじめは複数の標的があり、私はその標的の1つであった。また、彼はとりまきを作っていたが、そのとりまきに対してもいじめを振るった。
Eの暴力で私が最も酷いものとして記憶しているものは、とりまきの1人の歯を折ったことである。
Eは、可哀想であった。明らかに自分で自分自身を持て余していた。
小学校の担任が、クラス全員の前でEを叱る時に使っていた言葉はなぜか共感した。「E、先生はな、お前が大物になれる気がする。でもな、いまのような行動を繰り返しては、周りの人間は1人離れ2人はなれ、独りぼっちになってしまうよ。」俯き黙していたEがその言葉をどのように受け止めたのか、私には知る術はない。
Eは同じ中学に進学したが幸いに同じクラスになることはなかった。以前ほどのいじめはしなくなっていったようである。私とは別の高校に進学したが、それ以降の情報は私にはない。
いじめが社会の病とすれば、私にはその症状がよく顕れていたのだろう。いじめられることは、私に卑屈さを経験し、一方で私の心理に壁を作らせた。一方で恥ずかしながら、私もいじめをしたことがある。稀に気まぐれに、勝ち目のある相手に喧嘩をふっかけるもので、もちろん一時的なものだし、Eに比べればかわいいものだ・・・と思ってはいるが、相手がどのように思い、どのような影響を受けたのかは知るべくもない。ただ、悪いことと知りつつもついその行動に移ってしまったという、確信犯的な行為ではあった。
一先ず、総論として軽くまとめるにはこんなところだろう。
いじめは、私にとって悲しい経験であり、今も私の心の足かせである。これからも何度か、触れざるを得ないであろう。それでも、自分に向き合う過程では必要なプロセスと思えば、それほどの苦にもならず、進めて行けるはずだ。
2回のじゃんけん
小学校では、時々学年全体で集まる機会があった。あるときは「学年集会」であり、あるときは「芸術鑑賞」であり、それ以外にも時々はあったはずだ。
恐らくは小学3年あたりだったと思うが、じゃんけんをみんなですることになった。
二人一組でじゃんけんし、負けた子は勝った子の後ろに並んで、電車ごっこのように勝った子の両肩に両手をおく。これを繰り返す。
その日は「おかしな気分」であった。それは朝に気持ち悪い臭いを嗅いでからであった。
気持ち悪い臭いは、捨てられたビールだったと記憶している。今でこそ普通に飲むが、当時の私には不快な臭いの印象が強かった。学校に着いてからも、その気分は続いていた・・頭がぼうっとしていたからいくらか酔っていたのかもしれない。
そして、じゃんけん大会である。じゃんけんは勿論、2本指の「鋏」、5本指の「紙」、拳骨の「石」である。
その時は不思議と勘が冴えていた。相手と向かったとき、なんとなく何を出せばよいのか頭に浮かんだのである。迷わずして勝負し、然るべく勝った。
勝ち続ける子の電車は段々長くなる。電車が長くなるに比例して、電車の数も少なくなる。
ついに電車の本数は2本だけとなった。そして一本の先頭は私であった。
小学校のことであるから当然教師が前にいる。教師はなぜか、そこで最後の勝負をさせなかった。そして2回目のゲームを始めさせた。
不思議なことに、再び私は勝ち続けた。そして再び、最後の電車の一方は私が先頭であった。
そこでゲームは終わった。そして私の「おかしな気分」は、その日のうちに自然と薄れていった。
運がよかったといえばそれまでである。
ただ、私の中では、釈然としない不思議な体験の1つとして、妙に鮮明に記憶に残り続けている。
P.S.
余談ながら、私がじゃんけんに特に強かった時というのは、そのとき一日限りである・・
UFOを見た・・・??
幼稚園か小学校の頃、何度か「それ」を見た。あまりにもくだらなく、人と話したこともないが、ひょっとして似たような体験をした人は案外多かったりしないだろうか。
私が目撃した「それ」は、円形のように思われた。明るく晴れた日にふと空を見上げると、小さな円形の物体が楕円飛行しているのである。
当時の視力は1.0~1.5だったが、円形であること以上の判別はできなかった。高度的には飛行機やヘリコプターが相当に思われた、しかし形やその滑らかな楕円の動きからは飛行機でもヘリコプターでもなく、まして鳥や気球・風船とも思われない。
まして奇妙なのは、物音を一切立てないことであった。
私は怖がりではあったが、一方で「UFO」や「雪男」、「ポルターガイスト」や「人間蒸発」といった非科学的な事象には耐え難い魅力を感じてしまい、その手の本を読んでは怖くて夜に寝付けない・・・という行動を繰り返していた。本棚に見かけるとつい読んでしまうため、自分自身では処分できずに親に頼んで捨ててもらった記憶すらある。
ただ、私のみた事象は決して幻影ではないという確信はある。
私は何度か目撃したが、1度や2度は兄弟など複数の目の前の出来事であった。大抵は、楕円行動の末に雲に隠れてしまう。
一番最後は、小学校の帰り道だったかと記憶している。
帰り道、妹とその友達が数人で空を見上げていた。聞くと、「それ」の飛行を目的したが、たった今雲の中に隠れてしまったという。この機会には、残念ながら私自身は目撃することが出来なかった。
それから現在に至るまでは、再び目撃するに至らない。今住む地は人が多く、飛行機の往来も激しい。「それ」が地を選んで浮遊しているものなのか、あるいは集団催眠にかかったのか。
奇妙な体験は、ついに正体を知れず、ただ私の中で釈然としない記憶を残しているばかりである。
血を辿る
私の中では、父母から引き継いだ血が、5体を巡りつづけている。
私の血は、その由来はどこにあるのだろうか。残念なことに、怠慢な私は今まで気にすることを怠っていた。いずれ調べることとして、今は知る限りのことを書くに留めたい。
父母は共に、山梨の出身である。実家は同じ甲府市に今も残るが、先祖伝来の地というわけではない。
父の生まれた家は分家である。甲府の家は長男の伯父夫妻が今も住みつづけている。分家ながらも、私が幼い頃のおぼろげな記憶に、家の敷地の一角に製糸工場があったことが残っている。工場としてはこじんまりしたものだろうが、駐車場となった今の土地はそれなりに広々したものである。平屋の母屋に、金魚の放たれた小池、2階建ての離れ。
父方の祖父は明治の生まれであり、私が生を受けた時には既に亡き人であった。生前どのような人だったかも、話を聞いたことはない。しかし子供たちにこの家を初めとしていくつかの土地を残したらしいことを考えると、それなりに努力してそれなりにその時代を生き抜いた人であることを推察する。
祖父の実家である本家は、勝沼にある。勝沼という名から推測されるように、この本家は・・私が知る限りにおいて、葡萄農家を生業としていた。農家らしい母屋と離れ、家の敷地いっぱいに広がる葡萄畑が私の主な印象である。
本家は代々勝沼の比較的裕福な農家だったようである。残念ながら、それ以上の情報が手元にない。
母方の実家は、やはり山梨県内ではあるはずなのだが、一度も訪れた記憶がない。不確かではあるが塩山あたりと聞いた気もする。また、これまた不確かであるが、武田家の支流として神官を務めていたと聞いた記憶もあり、本当ならば清和源氏の血を受けたことになる。幼い頃は、「清和源氏の血を引くということは、天皇家とつながることだ」と無邪気に喜んだ。・・・然しながら近年の研究によると、武田家を生んだ清和源氏の代表系統の祖・六孫王経基は、伝承されていた貞純親王との親子関係が否定されつつある。歴史の事実とはつれないもの。
母方の祖父は大正生まれであり、私が幼い頃の思い出として断片的ながらもはっきりと記憶を残している。長男だったようだが、生まれた家を継ぐことはせず、一旦東京に出たものの再び山梨に戻り、一生を終えた。
祖父母の中では、母方の祖母が唯一健在であり、韮崎市は武田八幡宮近くにある祖母の実家は何度か訪れた。
実家といっても人がいなくなってから数十年、屋敷はなくなり当時を忍ばせるものは何もないようである。祖母とその弟である大叔父が整備した墓を、何度か訪れた。
祖母の実家は、墓の背後の山を含む比較的広大な土地を持っていたが、相続を巡って問題があったようであり、立ち寄って休める家はどこにも残っていない。墓はどうなるのだろうか・・・大叔父は京都の在住、いずれは土に返る運命なのかもしれない。
私が知るのはここまでである。
1.0 今、思うこと。
これから、私の今までの生涯を振り返りたいと思う。
だが、その前に先ず、私という人間を明かしておきたい。私という人間の具体像が見えることが、読者にとっても私の悪文を読み進める上で、いくらか障壁を除くことにつながるだろう。
私は、今の私は・・・ひどく不器用な人間である。
何に対して不器用か?紛れもなく、「自分自身の思い」に対してである。
今の私の生業は、IT系企業のサラリーマンである。
6時に起きて電車に乗り、8時前後に会社に着く。
出社時間前の人の少ない業務フロアで朝食を食べ、歯を磨き、一言を日記を書いてから、ちょっと早めに仕事にとりかかる。最近では一日のスケジュールを時間単位で書いてみるようになった。
一見仕事は効率的に進むように見える・・・が、退社時間はなぜか業後2~3時間も経過してからだ。
幸いなことにIT業界の中でも、今の職場は年齢幅20代後半~30代前半が主力。近い年頃のメンバー構成である・・・しかし、彼らとプライベートの付き合いはない。会社を離れたらそれまでの縁であろう。
この会社に入ってもう5年が過ぎた。
同期が次々に昇進していく中、私は流れに出遅れた感がある。
仕事はこなれてきた。今、業務において私に求められている人間的機能も見えてきた。
担当ベースの仕事がこなれた今、マネージャ的な仕事は興味があるが・・調整能力にたけた人間がその座にいる。
その人間は、サラリーマンとしての向上意識は低い。5歳以上も上なのに、どうしてああも消極的になれるのだろう、と感心するほどである。
その人間を押しのけて自分がその役割に就く、というのは1つの案である。実際、実現目処もないわけではない・・・が、積極的にそんな自分をアピールするほどの利己心的なエネルギーも持ち合わせていない。
中学校にてクラシック音楽への興味を自らに見出して以来、音楽は私のライフワークである。
高校では楽器もはじめた。一生の趣味を見越してヴァイオリンを選択し、今にいたる。
・・しかし所属する演奏団体では常に2番手未満である・・・キャリアが短いからではない。
1番手にするには実力不足、つまり技術不足に精神力不足なのだと想像される。
20代後半ともなれば今のご時世、結婚ラッシュである。身の回りで結婚話を聞く機会は多いし、年数回は結婚の式の類に呼ばれる。
私自身は・・・となると、大学4年に付き合った後輩、それがあっという間に破綻して以来、色恋沙汰の気配もない。興味がないわけではないが、行動に移した結果として自分や周りの傷つくことが怖いのだろう。
今の仕事を続けて、何十年後の自分に何が残るのだろう?そう問いつづけて数年経った。
今の仕事は組織の枠組みの中での歯車であり、歯車に差す潤滑油である。交換がきく部品である。
私が死んだあとに何が残るのだろう?考えるとただ、ただ、無常感が想いとしての私を包むばかりである。
目の前のことに追われてばかりである。
否、目の前のことを、「つい」追ってしまうのである。
業務上、大きな仕事を担っている。それは漠然としたものしか提示されていない。(このような場合、まずは順序だてた道を作るところからはじめなければならない。 )
考え事をしていると事務さんや他セクションから声がかかる。「ちょっとした作業を依頼したいんですけど・・・」「○○の件なんですけど、こんな話が挙がっているんですよ。そちらのセクションで事情を知っている方に相談したくて・・・どう思われます?」
・・・つい受けてしまうのである。ゴールと道が決まっていればやるべき事は明確である。漠然としたものより明確な仕事、といわんばかりについその雑用を優先してしまうのである。
もし、自分が今一度大学受験からやり直せると考えたとき、「医者になりたい」と思った。
論理的にしか機能しない組織を相手にするより、生身の人間を相手にした方がどれだけやりがいがあるか。仕事の中で行った発見が、どれだけ世界や未来へ貢献しうるのか。その魅力は大きいと思った。
しかし、今、医者は冬の時代である。経費削減の煽りを受けて、地方病院では仕事のきつさから医者が逃げていったあとに機能不全となる。聖域とされていた医術に「インフォームド・コンセント」の概念が導入され、医者と患者の立場のバランスが、他業界に準じて均衡された・・と思ったら、医療ミスに対する訴訟が相次いで起き、日々報道される医療側の敗訴。
加えて、医者になる道は険しい、挫折せざるを得ない条件は容易に揃い得る。
・・・やっぱり医者は現実的でないな・・・と思う。
自分は、この世に生を持っている間に何をしたいのか、単純なそのことがわからない。
自分は、自分がわからない人間なのかもしれない。
だが、今、敢えて結論付けることではないのではないか?
そう自らに言い聞かせ、筆を先に進める。
目次
このBlogの目次です。
章は、1つ1つのエッセイに設定されている「テーマ」に相当します。
1.素性
2.幼少期
3.小学校時代
4.中学校時代
5.高校時代
6.大学時代
7.社会人へ
8.25歳以降(in "The Second Quarter of My Life")
記述方針
自分のことを書くにあたって、一貫した方針を立てます。
毎回、記事を書く前に見直すこととしたいと思います。
・客観的な視点から私を描出する。
1つのエッセイの末尾は、「私は○○だった。」と締める。
・事実を書く。ただし、固有名詞については適宜ダミーを使用する。
(読んでいる方には、記事上の固有名詞と現実の存在を結びつけることよりもっと他に興味をもってほしいことがあるのです。)
・読むものを、自然と私の人格に引き入れることを目指す。
・エッセイ集の形をとる。
1つ1つのエッセイにはテーマをもたせ、読み物として完結させる。
・それぞれのテーマは、世の人に対してのメッセージ性をもつものである。
・時代背景や環境など、当時の状況が伝わることを疎かにしない。
以上。
