伊勢の式年遷宮のお祭に来ている。写真家、複数レストラン経営している著名デザイナー、大学教授、上海企業家の面々と一緒に。僕だけ20代、残りの方々は50代オーバーで、このところよくあるタイプの会合である笑
僕以外、どなたもとても濃い方々なので、まとまりそうもないにもかかわらず上手くまとまってゆくのは、伊勢の器のおかげなのだと、つくづく感じる。
地元産の食材を使った素晴らしいフレンチにて会食をしながら、色々なことを語らいあった。とても刺激的であった。
僕はこの一年で、人脈であれ、建造物であれ、食事であれ、「本物を喰らう」ことの大切さを痛感している。
自身を本物で満たすことで、ちょっとやそっとのことでは動じなくなる。それは、本物ではないものが感じ取れるようになることで洞察力が養われ、見識の広さをもってしなくても、物事の良し悪しを感覚的に判断できるようになるからであると思う。そのため、内的な自信がみなぎるのである。
人は、過剰だったり勘違いだったりする自信を持つ人は嫌悪するが、適当な自信を持つ人に仕事を頼む。これは、医者の仕事を想像すると、良く理解できる。
確かな実力と、この適切な自信を持ち、世のため人のためにピュアに自分が天より授かった能力を最大限に発揮して仕事をしている人を、僕は尊敬の意を込めて、本物の人と呼んでいる。
なのでその仕組み上、世の中で目立つものの多くは本物ではなく、本物はあまり表に出てこないことが多い。
僕が思うチャンスとはつまり、この本物のインプットたちにいかに沢山出会えるかどうかにかかっているのかもしれない。あらゆるソースの本物を詰め込み、咀嚼し、自分を通して、新たな本物を世に提案してゆく。インプットしたレベルを超えて、アウトプットする。その過程に常にいれることが、僕の生きたい道そのものだ。
そのトラックにいれていることが、なんてありがたいことだろうか。
それがどんな形で着地するかはわからないが、明確にそのようなイメージは持っている。
とにかく、多くの人の心を本物で満たすこと。人の意識を高めること。個が高まることで、全体に生じていた問題が丸く小さくなる。
それは僕の思い描く遠大なユートピアであり、一生をかけて取り組んでも良いテーマであると、信じている。
よく、この世の中に生きた証を残すと言っている人がいるが、別に証なんてあの世に持っていけないのだから、やりきった深い充実感を胸に僕はこの世を去ってゆきたい。
伊勢は毎回僕に大きなことを、教えてくれる。気づいてやるかやらないか判断をして、最後までやり切るは常に僕だ。なので、神頼みというものは一切ない。ただ、自分の意識をはるかに超えたものと接触することで、ヒントが心に落ちてくるのだ。
今回もまた、一つ大切なことを学ばせてもらった。