良い行動の動機 | 1丁目住人のブログ

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人間というものは足下がゆらぐごとに、根をもっと深くはろうとしたり、もっと中身をつけなくては、と思って行動するものだ。

不安定や恐怖や絶望などのネガティブな状態を挽回しようと、頭ではなく、身体も含めた全体として初めて、取り組めるのである。

「食べる・寝る・歯を磨く」といった、日頃反復しないと生きていけないことだって、食べなかったり、寝なかったり、歯を磨かなかったりすると、ネガティブな状態になるわけで、そうならないために、頭だけではなく、身体で理解して、日々反復しているわけだ。

当然、居心地が良いものについては問題意識を感じないので、人はそれに対してとりわけ行動はしなくなる。優先順位が埋没する。

つまり、行動の動機とその行動の優先順位は、そういった必要性に応じて形成される。換言すると、何か行動するためには、この必要性を、体感として知っている必要がある。

これは、人間の成長や進化には、根本として”体感としての経験”が必要だと言うロジックである。まあ、それはそれで良いだろう。

社会問題になっているニートについていえば、彼らは早く親元を離れないといけない。彼らからすると、親元から離れる必要性はないだろうが、ほとんどの親はいずれ先に死ぬし、不自然にプロテクトされている分、頼れなくなった時点でドカンと大きな絶望が訪れることになる。ネットのようなパラレルな世界が生み出されたと錯覚してしまったがゆえの病気だ。日本の農業に対する保護主義のようなものだ。

今回僕が言及したいことはこのポイントであり、よく衰弱しきってしまった産業に対しては、競争原理をもたらすことがソリューションとして一番先に言われることだ。しかし、活性をもたらすために必要なことは果たして競争なのだろうか?

このロジックから言うと、人に行動の動機(=ここの文脈においては活力)を与えるためには、競争という方法よりも、まず体感的経験なのである。必要な経験は、競合相手との競争ではないはずなのである。無理矢理動かされるような納得感のない、ネガティブな心情でしか動いていないと(注:上記でネガティブな状態を挽回するような行動は肯定されているが、ここでは、ネガティブな気持ちで行動することを指摘している)、次第に行動自体を避けるようになる。行動することが嫌になる。もっと悲しい事態は、奴隷のように、行動の動機などを考えることを放棄してしまうことだ。

まとめると、ネガティブな状態を払拭するには、ネガティブな感情を持ってはいけないわけで、そこには何かしら無理な部分があるということだ。しかしながら、そこが最も難しい部分だ。

モチベーションという概念に通ずるかもしれないが、今の多くの人たちに足りないのは、その人を自然に動かす、良性の体感的経験であると思う。美しいものをみる、味う、楽しいものをやるといった中で喜びを得る。金をちらつかせたり、目の前に人参をぶら下げるなどといった人の欲望に紐づけた低級かつ不自然なものではなく、自然で崇高なもの。また、モチベーションマネジメントのようなテクニックの話ではなく、もっと生活の基盤、価値観の基盤となるようなものだ。

僕が追い求めたいのは、そういった人間の瑞々しい感受性から湧いて生じた動機と行動とを直接つなげたエンジンでまず自分が生きることと、そのような良い循環を生み出す仕組みの雛形を、一部分でもいいので、具体例として出来る範囲でつくっていくことだ、と再確認した金曜日夕方であった。

このブログも、僕の内側を固めて外側化する、その試行錯誤の大事なパートを担っている。まず実質をコトコト煮込んで作っていく。実質が出来あがれば、自ずと形が伴い、その形から必然的に影が生まれる。