伊勢神宮に行った。今年2回目だ。今度は仕事で。
僕は、伊勢神宮とは、神様に会える場所だと思っている。
内宮の宇治橋を越えたとき、下宮の御手洗を過ぎたとき、別世界へと移ってしまう。神様がおられる世界へと足を踏み入れることになる。
絶対的な神の存在を感じたにもかかわらず、よく定義もしないで「神様」「神様」と連呼するのもいかがなものかと思い、今年3月に初めて伊勢神宮を訪れて、ずっと考えてきた。
「神様とは何だろうか?」と。
今や世界中で様々な宗教が普及しており、当たり前の話かもしれないが、いずれの宗教も、神の存在を認め、その神を崇め、神の加護があるようにと生活を各々律して、生きている。
ここまで広く人間界にその存在が認識されている神様であるが、世の中で一番、「意識合わせ」がされていない言葉であると思われる。なぜならば、神様を感じること(=神様の存在を信じる根拠)はそのすべてが、非常に個人的な、科学的にも摺り合わせられない、感覚的体験だからである。
そういったことを前提に、僕は、神様とは、”人間の鏡”なのであると思う。
人間は人間として、他の動物や霊長類とは明らかに一線を画す存在をして生まれ、特に、地球を資源として使う才能に恵まれた。その才能ゆえに、時に自然や宇宙のリズムに反してしまう、そのときに災いがおとずれる。そこで、自らを律するもの、つまり、自然と人間を正しくつないでくれるものを見つけ(=感じ)て信仰するようになる。信仰により心が謙虚に清くなることで、実際的な利益がもたらされる可能性が向上する。
その一連の流れの中で、神様を信仰するご利益を認識する。そして、そのことが信仰を広め、根付かせるのである。まさにこれらの循環こそが、神様を神様として存在たらしめるものではないかと思う。
つまり、神様は常に人間と共にあるのであり、神様とは自然と人間との意識の循環の中で生まれた、人間の鏡そのものなのである、という言い分である。まあ、人間が自然の一部としていることで、ずいぶんと神道的な考えだとはおもいますが。。
最後に、「神様とは脳が作り出したイリュージョンである」という意見には違うのです。神様は確かに脳で認識するのかもしれないが、”感じたもの”を頭で認識しただけなのだから。言い換えると、ないものをあると思うことではなく、あるものをあるものと思う、ということなのだと思う。
ふー、今回はまとめるの苦労したっす。