「 一命ニ運三風水、四積陰徳五唸書 」 という言葉が china にはあるそうです。


 私はこの言葉を鮑黎明さんという斯界では著名なちょび髭ハーフ ( 台湾×日本 ) の占い師さんの本の前書きにおける引用で知ったのですが、なかなかに含蓄のある言葉ではあります ( なんか雰囲気的にはもう二句ほどあってもよさげではありますが、鮑さんの本には上の二句しか引用されていませんでしたので、これだけで成句になっているのか一部を引用しただけなのかはわかりません ) 。


 鮑黎明さんというと、術数と呼ばれる事もある占いに貴重な時間とお金をつぎ込んで散財してきた占いマニアの方々の間では毀誉褒貶があるらしいものの、私のようなオカルト雑誌を適当に読み飛ばしていた程度の素人連中からすると中国占術の専門家的なイメージのある占い師さんで、出典は示されていなかったものの上に引いた言葉は勉強になりました。


 上の成句は人の一生の吉凶成敗禍福、あるいは栄枯盛衰などに影響を与える要素の影響力の順位を述べたもので、まずは何よりも第 一に < めい > の如何が肝要であるということで、それに続いて < > 、即ち一生の運気の流れである < 行運 > を見る事が大切だという事です。


 そして、第三番目に住環境としてのいわゆる < 風水 > が影響を与え、その次の第四番目に自らの日常の行動としての < 積陰徳しゃくいんとく > すなわち < 陰徳やあるいは功徳を積む事 > が影響し、最後の第五番目が < 唸書 > になるという事で、私は china の言葉は分からない ので最初この文字の字面だけを見た時には < おまじない > や < 法術 > のようなことを言っているのかなと思ったのですが、鮑さんの説明によるとこれは < 勉強すること > などを指しているのだそうです。


 つまり、普通に一所懸命に勉強して努力することは、当然の大前提としてはあるものの、その影響力においては遠く < 命 > の影響力の大きさには及ばないという事のようです。


 < 命 > の重さというのはかの内藤文隠さんが口をすっぱくして強調していた点でもあって、オカルトなどを趣味にしているような タイプの連中にはある意味で耳の痛い話ではあるのですが、例えば風水や奇門遁甲のような開運の秘法を如何に施そうとも、 < 命 > に よって定められたものを覆すことは結局は叶わないことなのではないか、というある種の宿命論のような話にもなっていくところのものでもあります。


 ただ、鮑さんはこれを逆に読む事もできるはずで、地道に勉強して積陰徳に精励した上で風水を整えれば運を掌握してやがては命を改善することもできるはずだ、と述べられていました。


 ただ、いずれにしてもただ普通に勉学に励み努力するばかりではどうともならない事は確かなようではあります ( 勉強なんかできなくたって人生どうとでもなる、という現実は、近年の日本に < みぞーゆーな総理大臣次々コロコロと排出・・・、ではなくて輩出されているのを見れば直感的に理解できますよね ) 。


 世の中にはとかく努力して頑張ればなんとかなるしどうとでもなるという意見も見られますが、そもそも冷静になって考えてみれば分かるように、そのような意見や主張を世間の大多数に向けて発信されている方、発信することのできる方というのは < そもそもが社会的な成功者 > なわけです。


 その辺のワープアやニートが何かを叫んでいてもそんな事を大マスコミが記事にしたり番組にしたりするはずもなく、かりにその辺のホームレスのおじさんを 『 徹子の部屋 』 のゲストに呼んだとしても視聴者はすぐにチャンネルを変えてしまうかテレビのスイッチを切ってしまうでしょう。


 努力して頑張れば成功するという主張をする人はそもそもが成功するべくして成功しているものなんですね。


 これは成功している人が < 努力をしていない > という事を言っているわけでは決してありません。


 大抵の場合にはいわゆる努力なるものをしているはずで、それは否定されるべきものでもないわけではあります。


 ただ、それ以前に < 自らの命を知る > という事が大切だという事を言っているだけで、この事を古い言葉では < 知命 > などと言ったりもするわけです。


 < 知命 > によって自らのめいを知ったならば、そして、自らの命を知った後でこそ、その次の段階として < 造命かいうん > と呼ばれるものが可能となってくるわけですね。


 この < 造命 > の段階ではまずは社会的な常識やマナー、立ち居振る舞い ( ← “ 立ち振る舞い “ じゃないですからね・・・ 叫び ) を学習して身につけ、基礎的な教養を学び、あるいは専門的な知識を身につけて機に備えるといういわゆる普通に説かれる勉学や努力 ( 鮑さんよれば china ではこれを < 唸書 > と呼ぶらしいです ) というものを重ね、その上で < 積陰徳 > として様々な善行に励 んで功徳という < 糧 > を蓄える事に励む必要があります。


 この積陰徳しゃくいんとくもしくは積徳しゃくとく によって糧を蓄え資糧を積聚しゃくじゅするという事は開運のための極めて大切な要点でもあって、神仏の世界でも神仏に祈願して願いを叶えてもらうためにはこの功徳という糧がなければならないという事がよく説かれています。


 功徳を積まずに祈願するというのはガソリンの入っていない空のエンジンを空ぶかしするようなものなのでしょうね。


 そして、その次の段階として < 風水 > という環境操作術や、それ以外にも開運法として知られている様々な対処法というものの出番という事になってくるわけです ( 諺ではただ風水のみが触れられているわけですが、それ以外のものもこの段階に含めて考えても良いと思います。もっとも、風水以外の術数による開運法はもしかしたら六番目以下・・・、なんてこともないとは言えませんが ) 。


 いずれにしても、ここでは風水をはじめとした様々な術数や法術というものは < 唸書 > や < 積陰徳 > といったものを前提とした上でこそ成立し得るものなのだ、という事を理解する事が大切な事にもなってきます。


 それは何故かというと、風水に限らずこのような術数と呼ばれる世界、あるいはそれよりももっと広くオカルトだのスピリチュアルだのといった世界に関心を持ち興味を抱くようなタイプの人たちの中には往々にして社会的な常識に欠けているようなタイプの人が多く見られがちな傾向があって、そのようなタイプの方々の中にはこの現実の世界が何かファンタジー要素で組み上げられているかの如き錯覚をされているのではないかと思われるような方々が多く見受けられがちだという現実があるからであります ( ← 私の事じゃないですよ・・・ 叫び ) 。


 ・・・。


 < 知命 > が何よりも大切であるとはいっても < 造 命うんめいかいぜん > のためには世間で言われるお勉強や努力などというものは当然の前提として要求されている事は言うまでもないという事と、だからといってめいを知らずにただ闇雲に努力ばかりをしても穴の開いたバケツで水を汲むようなものに過ぎないという事の両方を同時に正しく理解する事が必要なわけですね。


 ・・・。


 それにしても、 「 あ~う~、あ~う~ 」 しか言えず、話があちこちと関係ないところを迷走して “ 一体こいつは何が言いたいんだ !? ” 、 “ イエスなのかノーなのか一体どっちなんだ !? ” とイライラさせる程度の小学生以下のオシャベリしかできない輩が < 豪腕 > などと持ち上げられた上に下手したら一国の総理大臣になってしまうかもしれない、などというファンタジーじみたこの現実を目の当たりにしてみると、やはり < > の重さの前には何ものも抗うこと難しとの思いを新たにする今日この頃なのでもあります。