寄付金の額を公表し、しかもそれをランキング形式にしてその金額の高低を競わせるというのはいかにも china 的な出来事のような気がしますね。
「 2008年5月の四川大地震の際には、義援金の金額で人物を評価する風潮がはびこ 」 り、 「 善意の強制 」 が 「 “犠牲者”まで生んだ 」 との事らしいです ( その犠牲者とされるチャン・ツィーさんの話も同記事の Part-2 で触れられています ) が、これこそまさに china という感じで、このような彼の人たちの拝金的で < 金銭第一 > 、 < 金銭至上主義 > 的な心のありようというものは彼ら中華民族としての精神性を反映したものなわけであって ( その良し悪しについてまで私は言及しませんが ) 、そのような精神性の土壌に学ぶ中から ( 20 年を越える昔に ) 生まれた日本発の伝説の名著がこちらという事になります。
これは、この本が執筆・出版された当時に < ニーズ ( N I E S ) > として世上取りざたされていた韓国・台湾・香港・シンガポールという四カ国の驚異的な経済発展を導入としながら、そのニーズ構成国の四カ国中の三カ国までが china 系、即ち、ユダヤ人商人やインド人商人 ( 印僑 ) と並んで世界三大商人と呼ばれる事もある華僑の国であったところから、それらの国の驚異的な経済発展を仙道的な視点から分析しつつ、その成果を個人のレベルにまで引き落として、この本の著者が当時多くの記事を執筆していたオカルト雑誌を読み耽っているようなオタク的な若者が社会的に成功する方法を示すという、ある意味で自己啓発的なオカルト本として世に発表されたものです。
この後に著者の高藤さんはこれを下敷きとしつつ、かつての日本のバブル景気の力をもってしても泡沫さえ泡立つ事もなく ( ) 、陽の光も射す事のない暗く深い社会の最底辺で蠢きながら赤貧を洗いつつ極貧を極めるかの日々を無為に送り暮らすどんな素寒貧であっても、せめて最低限の生活はできるようになるという奇跡の秘法 < 仙道帝財術 > という体系を独自に編み出し世に発表することとなり、それがさらには以前の記事 ( こちら
) でもご紹介した高藤仙人の絶筆となった名著 『 仙道未来予知 察気の法 』 へと繋がっていく事になったわけです。
無為なバブルによって国力どころか国運のすべてを使い果たした挙句にそのバブル崩壊とともに、自己保身に汲々とする無能な似非保守勢力を取り込んだハゲタカどもによる高度経済成長の遺産簒奪が始まり、今や史上最悪の与野党連携の売国政権による日本叩き売り政策の執行によって豊葦原の瑞穂の国のすべてが食い散らかされ奪い尽くされようとしているわけですが、このような時代にこそ < 仙道帝財術 > のような秘法 ( ) が必要なのかもしれません。
そして、その < 仙道帝財術 > を生み出した母胎のようなものが、上に引用した記事に見られるような、この china の人たちの拝金思想とでも言うべき < 金銭第一 > 、 < 金銭至上主義 > 的な心のありようという彼らの持って生まれた民族性という事になるわけです。
・・・。
上に引用した記事を読んでそんな事をふと思ったりもしたわけですが、もう一つ上に引用した記事を見ていてふと思い出したのが、つい先だっても二度目の来日をされたあるチベット人ラマの講座に参加したことのある友人から、その友人が以前にそのチベット人ラマであるリンポチェの講座に参加した際に配布された詩集のようなものを見せてもらった時のことです。
その詩集はトグメ・サンポというラマが大乗仏教の菩薩の行いというもののあり方を 37 の詩に纏めて述べたもので、その友人がチベット人ラマの講座で受け取ったものはもとのチベット語の詩を現代中国語と日本語に訳してポケット・サイズの小さな手帳のような小冊子状に製本したものだったのです ( チベット語の表記はありませんでした ) が、その小冊子にはそのトグメ・サンポの詩を一体誰が何語から中国語に訳し ( チベット語から訳したのかそれとも英語訳から重訳したのか ) 、誰が何語から日本語に訳したのか ( チベット語からか英語訳からか、それとも中国語訳からか ) を示す訳者のクレジットはまったく無かったにも関わらず、そのポケット・サイズの小冊子を印刷製本するために必要な < お金 > を出した人たちの名前は < 助印功徳芳名録 > として二ページにもわたって記されていました。
私にその資料を見せてくれたその友人は 「 資料としては、中国語訳と日本語訳の訳者名や何語からの訳かのクレジットが欲しかった 」 と言っていたのです ( 私も個人的には同感です ) が、そのような資料的価値としての問題をひとまずは横に置くとすると、これは china 系の人たちの精神構造を理解するのに非常に重要で極めて興味深いサンプルになっていたような気がします。
彼らの価値観ではお金を出した人がとにかく偉いのであって、だからお金を出したというその人の功徳を顕彰しなければならないのでしょう。
もちろん、仏教の世界ではもともと < 印施 > とか < 施本の功徳 > などという考え方があるわけで、その意味においては、仏教の教えを記した書を印刷してそれをたくさんの人に配ったりする事そのものが功徳を積むための行為として認識されているわけで、その功徳を積むために仏教の教えを記した印刷物を作製するに際してお金を出した人の名前を顕彰するというのは決して悪い事なわけではありません ( ただ印施や施本の功徳を勘違いして密教的な内容のものまでをも配りまくるようにまでなってしまうと問題があるとは思いますが ) 。
しかし、それでもなお、彼らのその発想は日本人の私には異様に見えたことは確かではありますし、私だけではなく日本人ならば、少なくとも多少の違和感は感じるのではないかとも思います。
もっとも、そんな事ではやがて彼らに日本全国を占領され日本人などは駆逐されてしまう危険性さえあるかもしれないわけで、そうならないためには高藤仙人のように彼らのその異様なまでに貪欲なパワーに学ぼうとする姿勢が必要なのかもしれないな、などという事を最終的には考えたりした今日この頃なのでした。