今日はポカポカと良い天気で ( 私の生活圏では ) 心も和む一日でしたが、昨日の記事でも触れたように今日は世間でいういわゆる 《 彼岸の入り 》 というやつでした。


 今日から怒涛の 《 お彼岸週間 》 に入ったわけでありますね。


 そこで私も久々に岩波文庫の 『 金剛般若経 』 を取り出して ( というか、昨日の記事にアップした画像を撮影する為に取り出したままにしてあったわけですが、その 『 金剛般若経 』 ) などを読書してみたりしました。


 昨日も書いたように 『 金剛般若経 』 を ( 真読で ) 読誦する根性はないながらも、現代文や書き下し文を 《 読書 》 することは普通にできます。


 まぁ、正味な話で極めてな短編ですし 本

500 『 金剛般若経 』 の折本冒頭部

 上の画像は折本になった 『 金剛般若経 』 の冒頭部ですが、・・・、せめて振り仮名でもふってあればねぇ~ 叫び


 日本語訛りで読むと ( いくら基本的な原則があるとは言え ) 読み方がいくつもありすぎて ( どれがこの場合の正解なのか ) 困ってしまいます。


 ところで、昨日の記事ではこの 『 金剛般若経 』 の中でも最も大切な部分である 《 金剛般若偈 》 というものを紹介しましたが、せっかくですから今日も羅什訳の漢訳から言葉を補足しつつの意訳をしてもう一度紹介しておくことにしましょう。


縁起によって創られた
すべての存在するものは、
夢のようなものであり、
幻のようなものであり、
川面に浮かぶ泡沫のようなものであり、
影のようなものであり、
朝露のようなものであり、
雷の電光のようなものに過ぎない。
まさに、この様な世界の観方をしなさい。

 最後に 「 しなさい 」 と言ってはいますが、これは詩作上のもので、そうではないものを無理にそう観るようにしなさい、と言っているわけなのではなくて、世界の真実の在り様というものがそうなっているのをそのまま在りのままに観るようにしなさい、と言っているわけですね。


 このお経はスブーティというお釈迦様のお弟子さんがお釈迦様に対して日常生活の過ごし方や、心のコントロールの仕方についてどうしたらよいかを訊ねたことに対する回答になっているわけなのですが、その最終的なエッセンスがこの 《 金剛般若偈 》 というものに集約されているわけです。


 物にしろ命あるものにしろ、形あるものはやがてはその形を失い命尽きる時がくるわけで、これは物や生物などの物理的なものに限らず心のような精神的なものについても同様であります。


 悲しみにしろ、喜びにしろ、怒りにしろ、様々な心の動きや働きというものがあるわけですが、それに捉われることなくそのまま在りのまま・・・、という事で、それじゃー欲望の赴くままに行動すれば良いのかというと、それ ( 欲望の赴くままに行動するという原因 ) に対してはその結果というものが必然的かつ不可避的に伴ってくるものなのだ、という 『 金剛般若経 』 以前のもっと基礎的なお勉強をしておかなければならないという厄介な事もあったりはするみたいです。


 それに、・・・、ホット・ココアを頼んだのに紅茶を、それもアイス・ティーにして持ってくるような店員には速攻でブチ切れてフル・ボッコにしてやるのが真の慈悲というものだと私は確信しています ( もちろん、菩提心の僅少な私はそんな慈悲深い行いに及ぶことはできない日々をおくっているわけなのではあります ) が 叫び


 ・・・。


 それにしても、 『 金剛般若経 』 というのは一言で要約すれば 「 とらわれの心を捨てなさい 」 とでもゆーよーなことがああでもなしこうでもなしと延々と述べられているだけのお経なわけですが、これで何人もの人を祟り殺し、何千人規模の人に被害を与えた怨霊を鎮圧してしまうとは、まことにもってお経とは不可思議なものです。


 えっ?


 「 何を言っているのか ? 」 ですって?


 まぁ、それは今後の検討課題ということにしておいて、今日はいよいよお彼岸週間に突入という事で私もおハギなどをいただいてみようと思っていたのですが イチゴケーキ 、つい買いそびれてしまいました、・・・、残念。


 ちなみ、私の地方というか育った環境ではでもでもコシでもツブでも商品名はお萩と言っています。