明日は 2010 年 3 月 18 日になりますが、今年 2010 年の春分の日は 3 月 21 日ですので明日は < 彼岸の入り > の日ということになりますね。


 俗に言うこの < お彼岸 > というのは、 「 暑さ寒さも彼岸まで 」 という成句が示すように季節の移り変りをより身近に感じるために考えられた雑節の一つでもあり、 < 春の彼岸 > と < 秋の彼岸 > との別があって、この春・秋の彼岸の日にあわせて行われる仏教の行事が < 彼岸会 > あるいは < 彼岸の法要 > などと呼ばれています。


 歴史的に日本ではじめて彼岸の法要が行われたのは 806 年 ( 大同元年 = 延暦 25 年 )の事で、この時に崇道天皇早良親王の追号 ) を奉るために全国の国分寺に命じて春秋二仲月に 『 金剛般若経 』 を七日間読誦させたという記事が 『 日本後紀 』 の第十三 大同元年三月辛巳のくだりに出ているとの事です。


 但し、この < 彼岸の法要 > には < お盆 > などと異なってその典拠となる経典がなく、純粋に日本的な国情から派生していった極めて日本的な仏教行事というべきもののようではあって、より一般的には一種の < お墓参り週間 > のような感じになっているようです。


 ネット上では一部曹洞宗僧侶を名乗る方が一般の方に 「 お彼岸の時期に今生(此岸)のわが身を反省して後生(彼岸)を想う宗教的な風習はインド地方や中国にもあります。仏教の伝来とともに日本にも習慣が伝わり、特に六波羅蜜を行ずる期間とされました。 」 ( → こちら ) として、このお彼岸の風習がインドや中国にもある、という独自の説を説かれていたのを目にしたことがありますが、それは極めて特殊な独自見解かと思われます ( 弥陀を観想する縁日とする、という説ならば china 浄土教の大成者で浄土宗五祖の第三祖にあたる善導大師の著作された 『 観無量寿経疏 』 に説かれた < 日想観 > などをその嚆矢として指摘することはできるとは思いますが、それとお彼岸の行事とはまったくの別物で、その点については別記する予定です ) 。


 このお彼岸に関して具体的にいつがお彼岸にあたるのかというと、具体的には春分と秋分の日を中日 ( ちゅうにち ) とした上でその前後三日間づつをとって合計 7 日間を < お彼岸 > とし、第一日目を < 彼岸の入り > 、最終日を < 彼岸の明け > などと呼んだりしています。


 なぜ春分と秋分の日の前後の期間がお彼岸の期間として選ばれたのかと言うと、春分と秋分の日は太陽が真東から昇って真西に沈むために、阿弥陀仏の仏国土である西方極楽浄土に思いを馳せるのにちょうど良いという事情があるからで、真西に沈む夕日が西方極楽浄土へと続く白道となるわけです ( お彼岸についてネット検索したりすると大抵はこんな説明がされていたりすると思います ) 。


 この < 白道 > というのは、善導大師の 『 観無量寿経疏 』 に説かれた < 二河白道 > の比喩におけるもので、 < 二河白道 > とは娑婆世界の住人が臨終に際して猛火や獣などに後ろを追われ、目の前の右手に水の河、左手側には火の河が拡がり ( 現代的な感覚で < 二河白道 > 図を見ると < 河 > というよりは < 湖 > のような感じではありますが、伝統的な表現としては < 河 > と言います ) 、その水と火という二つの河 ( 二河 ) のわずかな隙間に極楽浄土に続く白道が繋がっているという、まさに 『 カイジ 』 の鉄骨渡りのような状況に世界を例えた浄土真宗における説法の定番ともいうものです。


 あるいは、春分の日や秋分の日は昼と夜の長さが ( 一応 ) 等しいとされているのでそれが < 中道 > を説く仏教にふさわしいから、などという事も言われたりしています。


 また、< 彼岸 > という言葉は < 波羅密多 ( パーラミター、完成、到彼岸 ) > に由来していて、俗なる世界である < 此岸 > から < 六波羅密多 ( 六波羅密 ) > の実践によって解脱の境地である < 彼岸 > へと到達するという意味で、中日を除いた六日間を六波羅密に当てるものとされたりもすると言われていますので、年に二回このお彼岸の一週間には大乗仏教で説く六波羅密について思いを馳せるというのも良いかもしれません。


 この彼岸のお供え物として知られるものに < ぼたもち > と < おはぎ > とがありますが、これは春の彼岸の頃に咲く牡丹と秋の彼岸の頃に咲くに由来するものと言われていて、一説には両者はともに同じものの異名だとする説もあります。ただし、地域によっては異なっている場合もあったりして様々なようではあります。

 団子状にしたゴハンを餡子でくるんだものを < おはぎ > とよんで、弁当箱のようなものに平たく敷き詰めたゴハンの上にべったりと餡子をのせて敷き詰めたものを < ぼたもち > と呼ぶ場合がありますし、 < こしあん > のものを < ぼたもち > といい < つぶあん > のものを < おはぎ > と呼ぶなど < こしあん > か < つぶあん > かによってわける場合もあったりするようです。


 ところで、先に少し触れましたように日本で歴史上はじめて開催された 《 彼岸会法要 》 では七日間にわたって 『 金剛般若経 』 が読誦されたということですのでその縁起にちなんで最後に、俗に 《 金剛般若偈 》 として知られている偈を一つご紹介しておこうと思います。


 この偈は別名 《 金剛般若経六喩の偈 ( というのは羅什訳の場合で、チベット語訳では九喩になります ) 》 と呼ばれることもありますが、日蔵ともに法要の 《 法施 》 として唱えられる大変に重要な偈であります。


 お彼岸には典拠となる経典がないため、お彼岸に法要をといっても特にこれをと言ったものもなく、一般には < お墓参り週間 > のような感じになっているのが実情のようではありますが、現代的な状況から考えて、歴史上初めて実施された彼岸会法要で 『 金剛般若経 』 が読誦されたという縁起にちなめば現代の彼岸会法要としてもこの 『 金剛般若経 』 の読誦を中心とした法要などを候補の一つに考える事も出来るのではないかと思います。


 そういった意味から私も本当なら気合を入れて 『 金剛般若経 』 でも読誦してみようかな・・・、などと無謀なことを考えたりもしたのですが、今回はこの 《 金剛般若偈 》 のみでお茶を濁しておく事にしようかと思います。


流星・( 眼の ) 翳・灯明と
一切有為法

幻影・露珠 ( 露 ) ・水泡と
如夢幻泡影

夢・雷と雲の如し
如露亦如電

有為なる諸法を是くの如くに観察すべし
應作如是觀

 上には 〔 〕 に入れて漢訳に諸本ある中でもっとも読誦されている羅什による漢訳も示しておきましたが、チベット語訳も漢訳もどちらも外国語であった昔のインドの言葉を自国語に翻訳したものですので、両者に微妙なずれがあるのは致し方のないところであって、チベット語からの和訳と漢訳が対応していなかったり、あるいはチベット語訳からの和訳が九喩あるのに対して羅什の漢訳偈が六喩どまりなのは漢文の詩作上の問題かと思われ、蔵文和訳と漢訳とにずれがある ( 叫び ) のは別に私の蔵文和訳がいい加減なせいではありません。


 ちなみに、羅什訳では 『 金剛般若波羅密経 』 とされているのですが、他訳では経題中に 《 金剛能断 》 や 《 能断金剛 》 の文字を含むものもあります ( 笈多訳や玄奘訳、義浄訳など ) 。


 これはサンスクリット語の 《 チェディカ 》 を 《 能断 》 と訳したもののようで、チベット語でもこの 『 金剛般若経 』 のことを 『 』 と訳しています。
 《 》 ではなく 《 》 ですのでチベット語から和訳すると 『 金剛能断 』 ではなく 『 金剛断 』 となってしまいますが、それではゴロが悪いので昔の漢訳の 《 能断 》 もゴロあわせの部分があるのかもしれませんね。漢語ではよくある事のようです。


 下の写真はチベット語訳の 『 金剛般若経 』 とその注釈書を合本にしたものです。

Rdorjegcodpa_2 チベット語訳の 『 金剛般若経 』

 古のチベットでは僧院に入門したばかりの新米の小僧さんなどは、この 『 金剛般若経 』 を手本としながらチベット語の文字の読み書きを習ったとも言いますし ( もちろんそれぞれの宗派やお寺によって様々でこれは一つの例ですが ) 、日本においても 『 金剛般若経 』 は般若経典の中では 『 般若心経 』 についでもっともよく読誦されている経典だとも言われています。


 一般的な現代人には真読はたぶんキビシイかと思いますので、 『 金剛般若経 』 に興味を持たれた際には岩波から出ている次の書がお勧めかと思います。

Photo 『 般若心経・金剛般若経 』
( 中村元・紀野義 訳註 / 岩波書店 )

 古の chinaでは禅宗の六祖・慧能がこの 『 金剛般若経 』 の一説が読誦されているのをふと耳にして発心したという逸話もつたえられていますので、大変に貴重な経典ということができるのかと思います。


 ただ一つ気になるのは日本で最初に実施された彼岸の法要が 「崇道天皇 ( 早良親王 ) のため 」 というところなのですが、その点については引き続き続編として触れてみたいと思います。