はーい、大学入試の志望動機書もまだできてないのに悠長に日記書きます。
ジェンダー論です。聞いたことありますかねー…中学保体に出たような出ないような…
とどのつまり「女性」「男性」という二項図式に基づいた社会的性別を論じたものであります。
そもそも保体じゃなく社会科でやるべきなんですけど、文科省のオヤジどもはどうやら男女の問題=エロっていうキャバクラ通いが行き過ぎた性的欲求の体現みたいな考え方のようで。
えー、根拠薄弱な社会風刺は置いといでですね。
性別というものの多様性は先に述べた通りですが(2013.6.14日記参照)まず「性別」を決めるものを考えてみましょう。
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他人と接する時に、おそらく全ての人が「この人は男か女か」と言う事を(あるいは全くの無意識の内に)、さも当然のように気にしているでしょう。
相手が自分と生殖できる相手なのか否か、といういわば種族保存本能の為の判断の為には重要な事です。
こうった観点から見れば至極当然かつ必要な人間観察であり、分類づけであると言えましょう。
但し、本当に「生殖対象」、すなわち自己の生物学的性別とヘテロ結合し得るか否か、というものに限られていれば、の話ですが。
ここで、人間の性別というものを決定する要因を挙げてみましょう。
一つはまずSex。すなわち身体的性別であるといえるでしょう。
内性器、外性器が雄雌どちらなのか、ということです。つまりは生物学的性別ですね。
おそらくほとんどの人は二種類だと思っているのでしょうが、現実には個々によってどちらでもなかったりどちらでもあったり、或いはどちらかではあるが不完全であったり、非常に多様なものです。
二つ目に挙げられるのがGender、これには用法が複数ありますが、我が国では「社会的性別」という意味合いで使われるのが主です。
例えば「スカートは女性装」だとか「男性は機械が得意」だとかそういうものですね。
さも当然のように語られる、性別二元論に基づいた社会的役割強制であります。
そこら辺のジェンダー論の本を見るとだいたいこの2点を主眼に置いている事が多いのですが、ここで終わらないのが私流。
三つ目にあえて、Sexuality、つまり性的指向を挙げます。
というのも、例えばメディアの中で「同性愛者=性転換者」という何の論理的根拠もないステレオタイプがまかり通っているからであります。
生物学的男性を恋愛対象とする生物学的男性(端的に言えばゲイの方)を「オカマ」だのなんだの定義する場面をテレビで見たことがある方、少なくないんじゃないですかね。
多かれ少なかれ、恋愛対象とは逆の性別でなければならない、という考えが見て取れます。
そしてもう一点、Gender identity、性同一性、或いは性自認というものを挙げておきます。
この点におけるGenderというのは、国内で語られる社会的性別という定義ではなく、「生物学的性に限らない広義での性別」という欧米的捉え方であることにまず留意いただきたい。
日本的に言い換えればSexual identityのほうが分かりやすいかもしれませんね。
つまりは、自分を男性と思うか女性と思うか、或いは中性、無性と思うか、という点です。
多くの場合は二点目に挙げた「Gender」と合致するのですが、決してイコールではなく、性自認は先天的要因も強いので、あえて挙げておきます。
ざーっと4点ですね。この4点を念頭に、冒頭述べた「相手の性別の判断」について考えてみようと思います。
初対面では「顔つき、体格、声」といったSexと、「服装・髪型・仕草」といったGenderから人の性別を「推測」しているものと思われます。
しかし、確定的ではありません。股間に手を伸ばすわけにもいきませんし、そもそも性器も2系統ではないですからね。或いは強い身体的性別違和から手術を受けている可能性もあります。
よく分からないままパトカーに乗せられるのがオチです。
親密な関係になれば、相手の話し方や趣味、話題なんかから「男性的だ」とか「女性的だ」とか考えたりすることもあるかと思います。世話焼きの男性が「お母さん」なんていわれたりするのはまさにこれですね。行動に性別役割という意味を持たせて、人がどういった行動を取るかによって相手の性別的傾向を判断しているわけです。
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ここまでに挙げたもので、確定的に性別を判断できるものは無いんではないですかね。
身体的特徴については、所謂「中性的」な方も多々居られますし、生殖器についても先天的にどちらの典型でもない方も居られます。
服装、髪型、仕草も人によりさまざまです。この点においてはあくまで「男性的」「女性的」という傾向に基づいた分類でしかありません。
そして、例えば話題や話し方の性別的傾向も、生物的に男性であるから自動的に男性的になるわけではなく、むしろ「生物学的に男性だから」という教育によって作られるものなのです。
すなわち、社会的に作り上げた偶像にしかすぎないんですね。
極論、「アイドルはトイレに行かない」と同じです。
もう少し近い例を挙げれば、「銀行員はすぐ倍返しする」とか「土木作業員は不良のやる仕事」とか「ジジイババアはワガママ」とか、そういう、代々不必要に受け継がれて来た「イメージ」に過ぎないのです。そして、そういうイメージが社会形成に大きく関わっている以上、個々の経験則に基づく判断も、それに合致したものになってしまう。
無論、こういった「イメージ」が生まれる「社会背景」というのはあるのですが、それはまたの機会に。
こういう広義的な捉え方をすると、「性別」なんてのは極めて曖昧かつ多様で、また非常に流動的概念な訳です。
生殖、つまりは雄雌のヘテロ結合となるか、簡単に言えば子孫を生み出せる相手かどうか、という判断以外においては不必要ですらあります。
もっとも、例えば生殖能力のある男性が「あなたは生理がありますか?」なんていう質問をすれば、ありとあらゆる鈍器のようなものを投げつけられることは想像にたやすいですが。
(くどいようですが、月経があるからといって妊娠能力があるとは限りません。また、生物学的男性の直腸に受精卵を着床させて出産に持ち込むことが可能であるとかいう学説があったり、生物学的女性の例で、受精卵が腹腔に着床し、そのまま子宮外妊娠となった後に無事出産した例があります。)
すなわち、個人におけるジェンダーというのは、社会が作り出した性別という役割を演じる事で、子孫を残す為のセックスアピールをしているに過ぎないのです。
しかしながら、性別の二分化が進む社会というのは、型にはまっていないと子孫が残せない社会なのです。
ですから、極端な性別二分はむしろ、社会性という鎖で必要以上に個人を縛り上げ、本質的なアイデンティティの成長を阻害するものでしかありません。
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えー、ここで上がりそうな反論を考えて見ましょう。
まず1つ「生物学的性差に基づいて社会的性差が生まれるのは当然だ!」
そして、「中性・無性が至上であるべきなのか?」
一つ目から考えましょう。
生物学的性差、これが社会的性差に影響している最たる例が「身体能力」です。
突き詰めればホルモンバランスなんですが、体格や筋力量など、生物学的男性が発達しているのは、経緯はどうあれ紛れも無い事実です。(経緯というのは長い人類の歴史の中での一種の環境適応という意味合いです。)
しかし、どうでしょう。わざわざ「性別」に当てはめなければならない問題でしょうか。
生物学的な性差であることは確かですが、これもあくまで傾向でしかありません。
屈強な女性も居れば、可愛らしい男性も居るでしょう。
例えば職業にあっては、それぞれの能力に適合したものを選択すればいいのです。
かといってキャバ嬢を男性がやるのは無理がありますよ。「社会的女性性」が売りですからね。
社会的女性性があまり無い生物学的女性がキャバ嬢になれないのと同じ話です。
逆に、体力が無い女性が、現業系職業に就くのも難しいでしょう。これも体力の無い男性がなれないのと同じ話です。
職業というのは適合するか否かであり、その適合条件に生物学的性別であったり社会的性別が含まれる事はあっても、ほとんどの業種においては能力によって選考されるべきなのです。
能力、あるいは条件に合う容姿によってアイデンティティであり、社会性が形成されるべきであって、「男だから」、「女だから」というそもそも論理的根拠もない傾向によって人間を、或いは自己をどちらかに帰属させ、それをベースに社会性が形成されるべきではないのです。
全ての人は「男・女」である前に「人間」であり、「人間性」の確立によってその人の社会性が形成され、それが社会において「男性的・女性的」と解釈されるべきであって、この順序は逆転してはならないのです。
また、「男が外で働き、女が家を守る」という固定観念は廃れつつありますが、根強い支持をする者も少なくありません。
しかし、全世界共通ではありません。全く逆の性役割を持つ民族も存在するのです。
女性は出産と授乳以外ではあまり子と接することはなく、離乳すれば育児は男性の仕事である。という我々日本人の一般的な考え方とは真逆の民族です。
こういった点からも、常に画一的定義が成されるべき性別というのは、生殖能力であり、それ以上でも以下でもありません。妊娠・出産能力があるものと受精可能な精液を射精する能力があるものが丁度いいタイミングで性交し、受精・着床すれば命が宿るという、それが性の根本なのです。
(この辺を掘り下げすぎると生殖の倫理とか不妊とかそういう話になるので、この辺で。)
この領域を超えた「性」というのは、個々のアイデンティテイに基づく話ですから、まずまともなアイデンティティが形成されていないと話にならないわけです。
身体的特徴とアイデンティティによって「その人そのもの」が社会によって定義づけられるべきであって、性別という観点に必要以上に縛られて一種のダブルスタンダードが生まれてしまったりしては、物事が「正しいかどうか」というものがないがしろにされて、不要な問題を生み出してしまうことになりかねないのです。
ですから、本当に生物学的性別に基づいて社会的性差が生まれるのであればともかく、社会的性差によって性別が決定付けられてしまったり、全く能力にそぐわないものを負わされてしまったりしてしまうのでは全く意味が無い。と思うのです。
そして、生物学的性別というものが二項でない以上、社会的性別というものも二項であるべきではないのです。
性というのはニ方向ではありますが二種類ではないのです。
生物学的性差に基づいた社会的性差、というのは何も生物学的性別に拠る必要は無いのです。
あくまで傾向として存在するべきなのです。
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2つ目、ここまで語った以上やはり「中性・無性であるべきなのか」という事も考えなければなりません。
結論から申し上げますと全くそうではないと思います。
中性的な人間が増える事は否定しませんし、時流によってそういった人が大多数となることも否定しません。
しかし我々の至上命題は種族保存です。
その為に生殖は欠かせないものですし、生殖能力が無い者は、それはそれで残すべき物、残せるものがあります。
その生殖において、やはり相手の生殖能力の高さや、育児期の衣食住の安定性(≒収入・生活能力)というのは重要で、その中で性別役割分業が生まれるのも特におかしいことではありません。
ですが、バカが子を産んでも十中八九その子はバカにしかなりませんし、固定観念と世間の目を過度に気にしたキョロ充の子はキョロ充にしかなりません。
「蛙の子は蛙」であり、「三つ子の魂百まで」です。
個人がそれぞれ、確固たるアイデンティティやポリシーを持つことで、より安定が望めるのであって、根拠薄弱な感情論と右倣え主義から生まれるものは、これと大差ないものにしかならないのです。
こういった高次的人間形成の上に成り立つ女性性・男性性というのは十二分に存在意義のあるものであります。
私が言いたいのは、社会的性別と生物学的性別は二種類ではなく、同時に必ずしも一致する必要はないということなのです。
多様な考え方が認められる社会、という目標において、この性別ニ元論の蔓延はおそらくマイナスであるでしょう。
そして、確固たるアイデンティティの上に成り立つ個々の考え方こそがその人であり、我々はよりよいアイデンティティの形成という部分に主眼を置くべきなのです。
アイデンティティが社会によりコントロールされてはならない。その一つとして社会的性別が個人を必要以上にコントロールしてはならないのです。
人間は社会によって作られ、社会は人間によって作られます。
我々は、生殖だけでなく、社会という形で後世の人間を生み出しているのです。
だからこそ、社会というのは個人に必要以上に干渉してはならない、多様性を認めることで個の多様性が認められ、多様で心豊かな社会が生まれて行くのです。
「性」というものが、人を規制するものであってはならないのです。
心豊かに愛を謳歌し、深い愛の中で子を産み育てるという過程こそが大切であり、そこに不必要な社会的性別という規制があるべきではないのです。
そういう意味合いにおいては、ジェンダーというものは存在する必要性すら薄いのかもしれません。
重要なのは、それぞれが自己や人、事象を敏感に捉え、真摯に向き合う姿勢であり、そういった姿勢は社会により形成されたもの、「性」や、或いは「常識」だとかいったものにも向けられるべきなのです。
性に限らず「選択肢」があるに越したことはないのです。
そして、選択肢を探し、選択する事が、あらゆる事象に対する多角的考察の礎となるのです。
ですから、万人が中性的である必要はありませんが、社会がそのあり方を否定してはならないのです。何事であっても必ずどこかに肯定される場所はあります。社会がそれを隠し、或いは押しつぶしてしまってはならないのです。(公共の福祉に反しない限りは・・・ この「公共の福祉」ってのも難しいですけどね・・・)
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はい、長文乱文失礼しました。
文字数記録更新です。
書きたいこと書けたので明日は書きたくない入試書類書きます。
次は何書こうかなー・・・