全体として、「戦記もの」としてではなく、
「友情・恋愛もの」として構成されているという印象だった。
宝塚歌劇なのだから、それはそれで良いのだが、
帝国軍と同盟軍の位置づけに、中途半端に触れられる箇所が多く、
原作を知らないと、初見ではかなりわかりにくかっただろうと思う。
例えば冒頭の、「同盟軍は、帝国の二倍の兵力を持ちながら敗北した」
というアスターテ会戦の逸話など、よほど注意深く聞いていないと、
ヤンの(本当は天才的な)働きが、一体何であったのかがわからず、
負けた側の彼がなぜ、自由惑星同盟の英雄と言われるのか、謎だと思う。
「ラインハルトが褒めていたから、ヤンの闘い方は見事だったらしい」
程度のことだけでも観客に伝われば御の字、…だと思った(汗)。
同様に、イゼルローンでの興亡についても、説明がほとんど無いので、
オーベルシュタインはどういう状況で逃亡して来たのか不明だし、
ヤンは、まだ同盟軍のものになっていないイゼルローンに
なぜか悠々と?滞在していたかのように聞こえる箇所もあり、
「どうも何やら、両国間でこじれて戦争が続いているらしい」
という曖昧な状況しか、わからないようになっていた。
そもそもイゼルローン回廊の存在意義についても一貫した解説がなく、
両軍が何を争ってどこで戦っているのか不明瞭なまま、流されていた。
わからなくてもいい・大事なのは登場人物の心象風景のみ、ということなら、
イゼルローンの名だけを意味ありげに繰り返し出すことは止めて、
もっと話を整理したほうがよかったと思う。
総じて、限られた上演時間で、ラインハルトの物語に焦点を当てるのなら、
もっと徹底して欲しかったというのが、私の感想だ。
三日間くらい連続上演できるのならともかく(^_^;、
今回の内容は、宝塚歌劇の一回の公演時間で説明できる量を超えている。
ラインハルトは、帝国軍の上級大将(のちには元帥)として、
ヤンのいる自由惑星同盟軍と対峙しなければならない上、
帝国内での地歩を確立するため、国内の貴族連合軍とも敵対しており、
更に、一度は手を組んだ帝国宰相リヒテンラーデ公とも
実は利用し合っているわけで、かなり込み入った対立構造の中にいる。
更に舞台では、同盟側のヤンも、同盟軍の司令官でありつつも、
最高評議会議長のトリューニヒトの操る憂国騎士団から付け狙われ、
更に、クーデター組織の救国軍事会議とも闘わなければならなくなるという、
これまた前門の虎・後門の狼という状況で苦慮していることが描かれており、
こうしたことがすべて同時進行で、そのうえにフェザーン自治領が、
両国を傍観しつつ漁夫の利を得ようとしている、…という話まであり、
とどのつまり、誰が誰と戦闘状態にあるのか、何のために闘っているのか、
容易にわからないようになってしまっていた。
いっそ同盟側の話は無いほうが良かった。
ラインハルトとヤンは、帝国×同盟の激突する戦場で出会えば十分だったし、
ジェシカの社会運動や選挙活動など、完全に同盟側の国内事情なわけで、
今回のラインハルトにはどうでも良い逸話であり、触れる必要はなかったと思う。
ユリアンも、物語に影響を与えないので、居なくても全く構わなかった。
また、ヤンの副官フレデリカにしても、原作では重要な人物だが、
今回の舞台ではほとんど何の役割も果たして居なかった。
元カノとしてジェシカを出すのなら、宝塚的にもフレデリカは必須ではないし、
ましてや彼女の父親グリーンヒル大将が、同盟のクーデターの首謀者、
という設定などはもう、触れたせいで話がややこしくなっただけだった。
ラインハルトの放ったリンチ少将が居さえすれば、
グリーンヒル不在でも、同盟のクーデターは起こったのよ(爆)。
私がこうした「よけいな場面」について残念に思うのは、
枝葉を広げ過ぎて、物語全体がわかりにくくなっただけでなく、
これらのために、「もっと大事な場面・台詞」が入らなかったと感じたからだ。
せっかく、帝国の双璧であるミッターマイヤーとロイエンタールが居るのに、
彼らは小綺麗な背景と化していて、アンスバッハのほうがよほど良い役だし、
私の愛するファーレンハイトは居ないし(殴)、……は、まあ良いとしても、
何より、最大の「がっかり」は、キルヒアイスが死ぬ場面が簡単過ぎたことだ。
あそこだけは、どれほど物語がわかっていなくても感動できるのに(爆)、
原作と較べて、キルヒアイスはあまりにもあっさりと死に過ぎ、
ラインハルトもまた、とても短時間で容易く立ち直ってしまって、
結局大したことなかった的な決着に見え、実に拍子抜けだった。
キルヒアイスを失うということは、無二の親友を失ったレベルの話ではなく、
ラインハルト自身の死をも意味するに等しい、決定的な打撃だった筈なのだ。
原作でキルヒアイスの遺体を抱いて、ラインハルトが異様に光る目つきで言う、
「嘘をつくな、ミッターマイヤー。卿は嘘をついている。
キルヒアイスが、私を置いて先に死ぬわけはないんだ」
という言葉、およびそのあとに出てくる廃人同様のラインハルトの描写が、
今回の舞台で割愛されていたのは、どう考えても勿体なさ過ぎた。
これらは彼の特異性を観客に印象づけるために、不可欠だったと私は思っている。
この段階を経て、心を閉ざし無機的な覇王となるラインハルトの姿こそ、
自身の半身を永遠に失った彼の着地点だったのではないか。
ラインハルトには、物語の最初と、キルヒアイスを失った後とでは、
明確に別の面を打ち出して貰いたかった。
凄いショックだったけど元通り立ち直れたから良かった、では困るのだ。
ちょっと自暴自棄になって散らかしたあと、ヒルダと甘いデュエットをして、
なんだか元気になっちゃったラインハルトには、私は、
「ちがーーーう!!」と叫びたい心境だった(逃)。
やはり一番問題となるのは、ラインハルトは本当はヒルダを愛していない、
にも関わらず、宝塚としてはトップコンビの物語にしなくてはならない、
という点だったと思う。
ラインハルトはもともと、異性・同性を問わず恋愛や肉欲とは無縁で、
彼が心底打ち込んだ相手は、キルヒアイス(と、姉)だけだったのに、
ヒルダが重要な人物になってくれないと、宝塚としてまとまらない(汗)。
凰稀かなめの演技を見ていても、彼女が主演者として、
この矛盾になんとかして「落としどころ」と見つけようとしていることが
私には感じられるような気が、幾度もした。
そういう点でも、凰稀かなめのラインハルトへの理解には、
私は共感を覚える点が多々あった。
転夫ころもんは(私にも同様の案が無いことは無かったのだが)、
「キルヒアイスは女っちゅうことにして、トップ娘役にさせたら良かったのに」
と実に大胆なことを言っていた(爆)。
確かに、そういう設定にしていれば、
原作の、男×男の萌え要素は無くなってしまうにしても、
コンビの立ち位置と恋愛の方向性だけは、ぴたりと合っていただろう(汗)。
小池修一郎先生は、原作の田中芳樹氏から、
「原作に忠実な舞台は既にあるので、宝塚は独自のものにして下さい」
という意味のことを言われ、ある種の「許可」は得られた由、
プログラムの先生の挨拶文の中に書かれていたので、
転夫案くらいのことは、やっても良かったかもしれない。
しかしそれだと、お披露目なのにトップ娘役が死んでしまう展開になるし、
何より今後の続編が作れなくなってしまうから、やっぱり駄目だよなあ(爆)。