
松竹大歌舞伎が広島に来ていたので、観に行った
(@広島市文化交流会館 昼の部)。
演しものは、『歌舞伎のみかた』『熊谷陣屋』『女伊達』。
市川右近、笑也、笑三郎、弘太郎、寿猿、猿弥、門之助ら、
澤瀉屋の人気役者たちを中心とした顔ぶれだった。
平成24年度(社)全国公立文化施設協会主催 西コース 松竹大歌舞伎
私が前回『陣屋』を観たのはいつだったか、思い出せないのだが、
歌舞伎座のサヨナラも行っていないし、
十年くらい前、吉右衛門の直実を観たのが最後だったと思う。御蔭で、
「平家物語の『敦盛の最期』のスピンオフで、
なんか途中から『寺子屋』風で、でももうちょっと年寄り版の話」
という把握になり果てていたくらいの、忘れ具合だった(殴)。
(後日記:前回の『熊谷陣屋』観劇は、思っていたより最近だった・爆。
2008年07月21日で、しかも吉右衛門でなく仁左衛門の直実を観ていた。
どんだけ猫にコンバンワ!???)
しかしそのような私でも、とてもハッキリと覚えていた場面があって、
それは、熊谷次郎直実が、最後の引っ込みで、
『十六年は一昔、ああ、夢だ。夢だ。』
という台詞を言うところだったのだが、
なんと、きょうはこれが、私の記憶と違っていた。
台詞は同じだったと思うのだが、直実ひとりの場面ではなくて、
今回は、妻の相模も一緒に退場するようになっていたのだ。
帰って来てから調べたら、これは猿翁の型だということだった。
直実の人生を表現するに留まらず、夫婦の愛情を描くというのが、
猿翁の狙いであったそうだ。
確かに、相模が途中で訴えていた通り、
小次郎は直実ひとりの息子ではなく、この夫婦が育てた子供なのだから、
子を失った親として、夫も妻もこれから同じ人生を共有し、
ふたりでともに菩提を弔いながら、残りの日々を歩んでいく、
という終わり方のほうが、現代にも理解されやすいものになるのだろう。
何もかも直実がひとりで引き取って終わってしまうよりも、
この型のほうが、観る側の納得感は大きいかもしれないと感じた。
直実は主役でありながら辛抱役だが、右近は懐が深く、
台詞のない箇所にもすべて直実のドラマがあって、感動的だったし、
笑三郎の相模とのバランスも良かったと思う。
門之助の義経は、私が勝手に思っている「義経」のイメージにぴったりで、
しかも弥陀六を前にして幼い頃の思い出を語る場面では、
品のある「お坊ちゃま」の風情も出ていて、とても気に入った。
猿弥は、去年9月の松竹座の『幸助餅』の女房おきみが素晴らし過ぎて、
私はあれからずっと忘れ難かったのだが、この舞台ではがらりと変わって
石屋の老人・弥陀六、実は平家の侍・弥平兵衛宗清で、
いかにも訳ありの、秘めた過去を持つ老いた侍の風情があり、
猿弥は本当に良い役者だなあと、きょうもまた感じ入った。
二十代の頃に観た『陣屋』では、私は物語としては感動しつつも、
深いところで揺さぶられるような気分は感じたことがなかったのだが、
やはり自分も親になり、「16歳の息子」などという設定が人ごとでなくなると
相模のクドキにも感情移入できるようになり、直実の涙にも胸が痛くなり、
「泣かせる芝居」であるという構成はわかっていながら、
きょうの舞台には、ついつい、目頭が熱くなるのを感じた。
舞踊の『女伊達』では、そのような重い手応えが、
一瞬にして華やかな吉原の風景に取って変わられ、鮮やかだった。
音羽屋ファンの私としては、『女伊達』といえば「木崎のお秀」だが、
きょうは澤瀉屋の笑也なので「木崎のおたか」(笑)だった。
この笑也の美しいことと言ったら、もうもう、溜息ものだった
(音羽屋の旦那さんだと、やっぱりどうしても肉感的というか(以下略))。
殺陣の振り付けもいろいろあるのだなあと、観ていて面白かったが、
中でも目を引いたのは、きょうのはお衣装が、
灰色っぽい地で雲龍の柄だったことだった。
今まで知っていた女伊達は、濃い色が多くて、それが途中の引き抜きで
サっと白っぽい衣装になるという感じだったと思うのだが……。
しかし今回の、登場場面からすっきり洗練された出で立ちは、
まさに、笑也のすらりとした美しさに、本当によく似合っていて、
こういう垢抜けた女伊達も、なるほどアリだなあという気がした。
私には長い間、右近といえば先代猿之助の一番弟子、一座のナンバー2であり、
また、笑也を初めて覚えたのは、スーパー歌舞伎「オグリ」で、
先代猿之助の相手役として抜擢された照手姫の舞台だったものだが、
今、こうして、猿之助の公演を離れて、
役者として立派に立てるようになった彼らを観るのは、
実に感慨深いものがあった。
歌舞伎が広島に来るからというだけで、演目も確認せずに買った切符だったが、
予想以上に見どころの多い舞台を観ることができたし、
澤瀉屋ならではの型もあちこちで楽しめて、なかなか収穫の多い観劇だった。