原発事故恐れ休暇、県外へ=生活市民部職員を処分-茨城・土浦(時事通信)
『福島第1原発事故による被ばくを恐れ、3月17日から2日間休暇を取り、県外へ避難したとして、茨城県土浦市は10日までに、生活市民部の男性主幹(33)を訓告処分にした。また、3月下旬に4日間ずつ休暇を取得したとして、51歳と48歳の同部課長補佐を厳重注意とした。』『市は「全職員が24時間体制で働いていた中で、このような行為は市民からの信用失墜を招きかねない」と説明している。』(2011/05/10-10:53)
放射能が全く怖くない人などいないし、ましてや原発事故が進行中のときには
避難を考えたり、場合によってはパニックを起こしたりするのも当然だと思うので、
3月後半に休暇を取ったり県外へ出たりした人たちの気持ちは、十分に理解できる。
一方で、あの非常時に、ほかの職員たちは不眠不休で働いていたのだから、
上司から見れば、自分だけ逃げておいて、また戻ってきて元通り勤めようなどという人が、
職場の中にいるとなると、自分勝手が過ぎると判断するのもわかる。
危険だからと仕事をせずに県外へ逃げる市役所職員を見て、信頼に値すると感じる市民も、
敢えて皆無とまでは言わないが、大変少数だろう。
しかし、そういう心情的な問題は完全に別として、この処分は『手続的に』不当だと思う。
年次休暇については権利なのだし、管理職は取得理由を原則的には問えないはずだ。
勿論、年休でもそうでなくても、申請された休暇について、
管理職側は、様々な事情を背景に許可しない権限はあるが、
それなら、休暇取得の3月時点で、認めない由を即座に告げているべきで、
当時は一旦受理しておきながら、年度も改まった今になって処分というのはおかしいだろう。
私が労組側なら、これは黙っていられないと思うのだが(汗)。
茨城新聞のほうに、地元紙だけあってもう少し詳しい事情が出ていた。
地震や原発事故が突発的な事情で、管理職側も対応に苦慮したことは想像できるけれども、
特に課長補佐の二人については、休暇取得については事前にわかっていたのだし、
3月中はそのまま認めたものを、新年度になってから遡って厳重注意などするというのは、
やはり、手続として誤っているのではないかという印象だ。
震災直後休暇の3職員処分「信用失墜招く」と土浦市(茨城新聞)
『男性主幹は「地震や福島第1原発事故で妻が精神的パニックに陥り、3月16日深夜に静岡県内の親類宅へ車で移動した」などと、妻を送るためのものと説明。その後21日まで休んだ。17日朝に電話で上司に18日までの休暇取得を告げ、3連休の19~21日は災害対策の公務から外れて公休だった。心配した元上司が17日に電話で出勤を促したが、戻らなかった。』『男性課長補佐2人は3月下旬、勤続25年の職員に与えられる、5日を限度とする「リフレッシュ休暇」を取得した。休暇は次年度に持ち越せず、2人とも震災前に申請し認められていたが、瀧ヶ崎洋之副市長は男性主幹を含め「非常事態、震災対応の中で市民の信用失墜を招きかねない」と、3人の処分理由を説明。中川清市長は「職員の権利もあるが、それとはまた別の問題として処分した方がいいと考えた。残念だ」と話した。』
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ところで、精神科医の香山リカ氏が、原発事故を巡る「心の問題」について、
『いま「原発鬱」とも呼ぶべき症状が増加している』という文章を書かれていて、
私にとっては、なるほどと思い当たる箇所がいくつもあった。
不安の正体は原発問題。いま「原発鬱」とも呼ぶべき症状が増加している(ダイヤモンド・オンライン)
私はある時期以来、原発に関して自分の考えていることをここに書くのをやめたのだが、
それは、原子力の問題は、専門的になればなるほど難しいと感じたためもあるが、
発言する(一部の)人たちが、あまりにも感情的であることに圧倒されたのが、第一の理由だ。
香山氏のご指摘にも共通することだが、ツイッターやいくつかの掲示板を見る限り、
「今回の原発事故は深刻でない」か「現在の放射能被害は既に最悪の事態」かの、
いずれかでなくてはならず、「私たちと違うことを言う人って人間としてどうなの!?」式の
攻撃的な論調があり(発言する人が皆必ずそのどちらかに属すると言いたいのではない。
中庸を心がける人も全くいないわけではない、ということは感じている。念のため)、
更に、「深刻ではない」のがどの程度のことを言っているのか、
同じく「最悪の事態」とはどういう状態を指して書いているのか、という点も、
発言者ごとに恣意的に変化しているようだと、読んでいて感じるようになったのだ。
私は徐々に、自分が、そのような場で何かを言えるとは思えなくなったし、
議論になんらかでも貢献できる自信なども、全くなくなった。
それで、現在進行形の自分の考えを書くことは控えるようにし、
それと同時に、求めなくても入って来るほどの情報や意見に関しては、
そのまま遮断せずに受け取ることにした。
考えることは止めていないし、何にでも無批判に従う気になったのとも全く違うが、
発言せずに経過を待つ、ということもまた、一通りの忍耐力を要することであり、
集団においてはひとつの役割だと思うようになったのだ。
全員で同時に発言しても事態は好転しないし、さかんに発信する人たちがいるのであれば、
一方で、当面は黙ってそれを聞く(読む)、という人間もいるべきだと今は思っている。