久しぶりにピアノの稽古に行った。
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番第2楽章。
本番は二台ピアノでやる、というのが私のような者にとっては大変だ。
勿論、オケとやれと言われたらそれはそれで大変困るが、
ピアノが二台というのは、音色が全く同じ楽器でそれぞれのパートを弾くわけだから、
ソロの音数の少ない箇所など、音数の多い伴奏ピアノの音量に負けてしまいそうだ。
独白のように、ぽつり、ぽつりと素朴な単音で語りながらも、
自分のメロディラインを維持し響かせることなど、私の技量でできることではない。
そうでなくても、もともとピアノは弾いた瞬間から音が減衰して行く楽器なのだ。
モーツァルトのように限られた音だけで構成されている楽曲でも、
オーケストラに負けずに語れる演奏家というのは、本当に凄いと思う。
相対的に大きな音量を出していても、必要な箇所ではピアニシモの表現ができる、
というのは、頭で考える以上に大変なことだ。
しかし、そういう難しさはともかくとしても、
昨今のように日本中が「非常時」という雰囲気にあるときには、
モーツァルトの音楽は、何より私を慰めてくれるものだ。
基本的には私はベートーヴェンが一番好きなのだが、
あれは、弾くにも聴くにも、こちらにエネルギーがないと、つらい。
ベートーヴェンは熱くて重くて、押しつけがましいところが多分にあるので
受けて立ち、それを十分に味わうためには、元気がないとダメなのだ。
今、私の心は弱っている。というより、弱っていない日本人など居ないだろう。
モーツァルトの、柔らかで懐の深い音楽は、そのような心境にも添ってくれる。
モーツァルトには、心躍るような幸福感を倍増させてくれる力もあるのに、
受け手の状態が変われば、そのとき必要な箇所に必要なだけ応えてくれて、
実に不思議な柔軟さと奥行きがあり、有り難く、かつ得体が知れない(笑)。
モーツァルトの本番が来月終わったら、ベートーヴェンのソナタ5番を終えて
(これは第3楽章の終わりまで一応は見てある。音の面で仕上がっていないけど)、
そのあと何をやりたいかと、先生に尋ねられたので、
現時点の希望としては、ハイドン、と申告しておいた。
というのも、前にポゴレリチが言っていたのだ、
ハイドンは音楽院では試験の課題曲だったが、後にプロになってから弾いたら、
そこにモーツァルトに匹敵する深く鮮やかな世界が広がっていることを知った、と。
また、フー・ツォンも前回来日したときに、オール・ハイドンのリサイタルをやり、
ハイドン独特のユーモアについてインタビューで語っていたものだった。
それで私も、自分なりのレベルでだが、ハイドンに触れてみたいと思うようになったのだ。
小学生や中学生が、それこそソナチネやソナタで出会うのとは違った意味で、
今の私なら、ハイドン先生の愉快さを楽しめるのではないかと思っている。