本日11時、地元放送局のRCC中国放送本社ビル1Fで行われた、
大植英次チャリティコンサートを聴いてきた。
このたびの震災被災者支援という目的で行われた演奏会であり、
入場無料で、玄関ロビーに広島お得意の「たる募金」だけが設けられていた。
10時40分頃にロビーに入っていくと、演奏会そのものはまだ始まっていなかったが、
コート姿のまま大植氏がピアノに向かっておられ、
モーツァルトやベートーヴェンのソナタの一部や、
ビートルズナンバー、ガーシュイン(?)などを次々と演奏なさっていた。
私は大植氏のピアノは初めて聴いたが、大変に求心力のある演奏で、
まさに「気分はひとりオーケストラ」状態の響きだった。
大植氏は、特に小さい子たちには、遠慮なく前に来るようにと促し、
騒いでもいい・動いてもいい、どうかきょうは無礼講だと思って、
クラシック音楽は本来、楽しく聴くものなのだから、
等々と弾きながら笑顔で話しかけられた。
それで、最前列には小学生の子供達が喜んで移り、てんでに陣取った。
定刻になって、大植氏が改めて紹介され、「広島に帰って参りました!」。
演奏会は、チェロ・ヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノそれぞれにソリストを招き、
大植氏はピアノ連弾曲の演奏と、弦楽器のピアノ伴奏を一手に引き受けられていた。
曲目は、シューベルトの『幻想曲』、フォーレ『夢のあとに』、
バッハ無伴奏チェロ組曲4番のサラバンド、マスネー『タイスの瞑想曲』、
ショパン『ワルツ作品64-2』、ブラームス『ハンガリー舞曲第5番』、
モーツァルト『アヴェ・ヴェルム・コルプス』、シューベルト『アルペジオーネ』、
(ここには私の記憶だけを頼りに書いているので、正確ではないかもしれない。
経費は一切を募金にという趣旨で、プログラム冊子など何も作成されなかったので)、
そして『涙そうそう』、会場の全員で歌った『七つの子』、『ふるさと』。
大植氏は、自分が広島生まれということも理由のひとつだが、
今回はさらに、どうしてもこの演奏会を広島から発信したい気持ちがあった、
ということを話された。
大植氏は、「原発」や「原爆」という語彙は一切、使われなかったが、
『今、東北で起こっている・日本中が心配している事柄を、
誰よりも理解でき支援できるのが広島の私達である筈だ』
という意味のことを言われた。
1945年8月のあの日から、「75年は草木も生えぬ」と言われた広島なのに、
人々は数日後にはもう新聞を発行し市電を走らせていた。
誰も彼も広島を離れず、あっという間に復興を実現させた。
広島の者は、高熱火災で人も街も焼き払われ、放射能で土地を『汚染』されても、
ここから離れず、不吉な言葉になど屈しなかった。
『ヒロシマのmiracle』という表現は米国の政界なら知らない者はないそうだ。
彼らの常識や科学では予想だにしなかったことを、被爆者たちは成し遂げた。
「奇跡は起きます!」「広島の応援は、重みが違います!」
と大植氏は力強く仰った。
私たち広島の人間は、決して「絶望」でうなだれたりはしないのだ。
広島の私たちならばこそ、このようなとき何を信じれば良いのかを知っている。
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(という、イイ話のあとに、オマケ)
・大植氏とRCC社長の会話から、大植氏が広島人として浦島状態だと発覚した件。
大植氏「太田川の花火大会は、今でもあるんですか?」
社長「いえ、太田川は、もうありません」
大植氏「ええっっっ、太田川は、もう、ない!??」
社長「いや、川は、あります(^_^;)。花火大会が、ないのです。
今、花火は宇品でやってます」
大植氏「宇品。え~と、空港のあったとこですか?」
社長「港のあるところです(^_^;)」
(客席の皆が異口同音に『それ(空港があったとこ)は観音』。)
・大植氏が、日本人としても浦島状態だと発覚した件。
ヴァイオリンとヴィオラの二重奏で『涙そうそう』をやるというとき、
聴衆は「おお~」と反応したのに、ただひとり大植氏はこの曲をご存じなかった。
というより、『な・だ・そう・そう』が何語かも定かではないご様子だった。
大植氏「(不思議そうに)なんの歌ですか?皆さんはご存知なんですか」
(場内一同、大きくうなずく)
大植氏「わかりました。大植英次には初演でございます(^◇^;)」
・終演後は、写真撮影もOKだった。
子供達が喜んで大植氏との写真を家族に撮って貰っていた。
最初から最後まで、食い入るように聴いていた子たちは、
戦後の三世か、もしかしたら四世くらいの年代だった。
彼らはきょうのひとときから、きっと、初めての、大きな何かを受けとったはずだ。