昨日の松本和将氏のピアノ・リサイタル(@広島県民文化センター)のとき、
松本氏がショパンのソナタ2番と3番について、
「2番は闇、3番は光」という捉え方をなさっていると
説明をして下さったのだが、私のイメージは少し、違う。
私のショパンは、ポゴレリチの演奏のせいで(御陰で?)
曲の印象がかなり固定されてしまっている。
勿論、松本氏は、「聴く人がそれぞれのイメージで聴くのが良い」
ということを言い添えて下さっていたのだし、
私が勝手な聴き方をすることも、素人の聴き手としては、きっと許されるだろう。
ソナタ2番は闇、についてはほぼ同じ感触が私ももとからあった。
私は昔から、2番のソナタがどうして
「個性がばらばらの四つの楽章を無理矢理ひとつのソナタにまとめた」
などと言われるのか、不思議でならなかった。
私にとっては、2番のソナタくらいわかりやすい物語は無かったからだ。
1楽章で死闘が始まり、死に抗うために果敢に戦い続け、
2楽章ではそれが見苦しい七転八倒になり、最後にがっくりと絶命。
3楽章は、周囲の人たちによる葬儀と哀悼と埋葬。
4楽章は、人のいなくなった墓場に、ただ冷たい風だけが舞う光景。
少なくとも90年代までのポゴレリチのソナタは、
そのような絵を私に見せてくれた。
今の彼が弾いたら、どうなるのかはわからないけれど。
そして松本氏の言われる、ソナタ3番は光、というのは、
氏の昨日の演奏だと、死にも生にもかなり心が開かれたものだったと思うのだが、
私が長い間ポゴレリチの演奏から得ていたイメージは、もっと異形のものだ。
私の思う3番のソナタは、もう自分が死んでいることさえわからないほどの
完全な死、「生」があったことさえ思い出せないくらいの深い死だ。
1楽章の開始から、もう全く生の気配などない。
生に執着するための苦闘から自由になっているので、闇もない。
悲嘆も歓喜も幻影だし、葛藤さえも実体のないものだ。
ポゴレリチの弾く3楽章を聴いたときに、黄泉路を照らす光はこんな色なのか、
と私は二十代の頃に思ったのだ。
あれは、「時間」の流れさえなくなった、ほの明るいあの世の道を
正気と狂気の区別もなくなって、ただひとりで歩いていくときの歌だろう?
私にとってショパンのソナタ3番の3楽章の中には、
なぜ自分がポゴレリチに惹かれたかの回答がほぼすべて存在している。
昔から、私はポゴレリチが弾くならショパンの中でもこの楽章が最も好きだった
(『好きだった』などとカルく言うと健康的な感じがして違和感があるが)。
最近の来日公演で幾度か聴いた3番は、もう死に方が並大抵ではなく、
そのせいで、「黄泉の国の光」が必ずしも3楽章のものだけではなくなっていたが、
それはそれで、よく考えてみたら実に気味の悪いことかもしれない(汗)。
いつかショパンが弾けたらいいなあと単純に憧れる高校生だった私が、
次第次第にショパンを聴き続けることが苦痛になっていったのは、
ポゴレリチの演奏に毒されたからだと、昨日はつくづく思った。
松本氏のリサイタルについては、書ければ、また後ほど。
ショパン云々の私の被害妄想(爆)はともかくとして、
昨日のは、ちょっとほかでは聴けないくらいの圧巻の演奏会だったと思っている。