10月20日の夜、東区民文化センターで、カツァリスの広島公演を聴いた。
カツァリスというと、私にとっては初めて出会った80年代半ば以降、
常に自分の中では最高位に近いところにいるピアニストで、
もうもう、この人は才能のスケールが違いすぎる、とはっきり思っている。
今回もまた昨年に続き素晴らしい演奏会だったと感じたのだが、
帰宅してネットで検索してみたら、なんと酷評がたくさん出ていた(爆)。
そしてそういう「見識ある」評や感想を見ると、
私が「凄い!」「カツァリスでないとこうはできない!」と感じ入った箇所に限って、
「最低」「なんでああいうことをするのか」と非難の的になっているのだった。
それで私は改めて知ったのだ。
私にとっての神は、他人にとっては『敢えて言おうカスである』と。
私だって他人の崇める神が、その偉大さをどれほど力説されようとも、
私には、全くなんの値打ちもなく三秒あれば忘却の彼方、
というのは大いにあり得る話なので、完全にお互い様ではあるのだが、
しかしこういうことが、ポゴレリチに関して起こるのなら慣れっこだが(爆)
カツァリスにまで有り得るとは、これまで考えてみたこともなかった。
なんともマヌケで自己中心的な話だが、私はそれくらい、
カツァリスの偉大さなんか自明だろうと思い込んでいたのだ(爆爆)。
もしコトが多数決で決まるものなら、間違っているのは私なのだ。
世の中の「多数派」と同じものを共有できていない、という意味では、
私には、聴き手として根本的におかしい箇所があるということだ(汗)。
しかし幸いに、話は、芸術に関することだ。
こういう国際的なレベルにまでなった芸術家に、もはや正解など無い。
私のような一般の音楽ファンが、自分の良いと感じたものを
少なくとも自分にとっては世界最高である、と考えることは許されるはずだ。
そして、同じ芸術に触れたとき、違和感に耐え難い思いになるよりも、
良い!と真っ直ぐ受け取れる鑑賞者のほうが、その瞬間において幸福だ。
その意味で私は、今回間違いなく幸福な聴き手だった。
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本プロ開始前に、即興演奏10分程度
(有名曲のピアノアレンジを本人の気分の赴くままに
即興的に編曲し、連続的に演奏したもの)
シューマン
アラベスク 作品18
花の曲集 作品19
ショパンのノクターンの主題による変奏曲
クララ・ウ゛ィークの主題による変奏曲
子供の情景 作品15
ショパン
ピアノ協奏曲 第2番(オリジナル ピアノ独奏版)
(アンコール)
ゴットシャルク:バンジョー
チャイコフスキー:「四季」より「十月 秋の歌」
マルチェロ(バッハ編):オーボエ協奏曲BWV974第2楽章アダージョ
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シューマンの、特に初めのほうは、私の予想した演奏よりも
ずっとさり気なく、軽やかにさらさらと流れるような印象で、
私としては、もっと濃く聴かせて欲しいと感じる箇所が多々あった。
しかしプログラム全体の構成から考えるなら、
あれはカツァリスの作戦、・・・いや、そういうあざとい作為ではなく、
彼の感性やバランス感覚から言って当然の結果だったのかもしれないが、
ともかく、ショパンのヘ短調まで全部でひとつの演奏会であることを考えれば、
シューマンの開始は、やはりああすべきだったのだ、とあとで思った。
私はショパンがもともと大好きとまでは言えず、
私がショパンを良いと思うときには、曲でなく弾き手を良いと思っている、
ということが大半なのだが、今回の協奏曲はそれに加えて、
カツァリスがピアノだけで聴かせてくれたことにより、
曲そのものの魅力を初めて知ったような気がした。
特に三楽章など、実は珠玉のマズルカだったのだと今更思った。
尤も、それはきっと、カツァリスの「聴かせ方」があったからこそ、
私はそう思ったのであって、ほかの演奏家でも同じように感じるかどうかは、
ピアノ版というカタチで聴いてみたことがないので、
よくわからないのだけれども。
アンコールのうち、『バンジョー』と『十月』は
去年の神戸のリサイタルでも弾いていたし、定番だ。
曲を知らない人でも、カツァリスの『バンジョー』を聴けば、
少なくとも、その超絶技巧だけははっきり感じることができるだろう。
しかし今回はそれだけでなく、『十月 秋の歌』のほうが、
これまたしみじみと深く聴かせる名演だった。
カツァリスのピアノは通常、音数の多くない曲でも多くを語るのだが、
今回のチャイコフスキーは、その段階をもうひとつ解脱したような、
言葉に現れぬ余情、幽玄、に通じる趣きがあったと思う。
・・・しかし、本当に、どうしてカツァリスをわからない人がいるのか、
真剣に疑問に思えてしまうほど、私には素晴らしい演奏会だったのだ。
感性というものは、本当に本当に、摩訶不思議だ(笑)。